中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―  第118回 監査の道

 リットン調査団が半年以上の期間をかけた調査した報告書が、昭和7年10月1日に国際連盟理事会に提出され、それが世界にも公表されました。リットン報告書の結果は、「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満州国の独立も国民の自発的なものとはいえず、その存在自体が日本軍に支えられている。」として、おおよそ連盟側の予想通りでした。しかし、日本側の主張も一部認められ、事変前の状態に戻ることは現実的でないとして、「日本の満州国における特殊権益のため、日中間に新条約を結び満洲国が国際的な承認を得る必要がある。」などの内容もありましたが、結局、満州国について認めないとされたわけです。日本は当然これらの内容は受け入れられないとしました。日本は事前にこれらの報告書の内容を掴んでいたため、報告書公表前の同年9月15日に既に建国されていた満洲国を承認してしまいました。
 さらに、翌昭和8年2月、関東軍は満州国に近接する熱河省に対する軍事侵略を開始しました。これは連盟規約16条においては、戦争の解決に努力している時、新たな戦争に訴えた国は、すべての連盟国への戦争とみなす、という規約に抵触することになります。またこの場合、他の総ての連盟国は、直ちに一切の通商上、金融上の関係を断絶するという経済封鎖も規定されており、日本政府は大いにあわてて、当時の斎藤実まこと首相(安政5年~昭和11年、2・26事件で殺害される)は熱河作戦の閣議承認を取り止め、昭和天皇の裁可も撤回するように働きましたが、そのようなことは当然不可能でありました。
 このような経緯から日本は国際的に孤立を深め、ついに同年3月27日には国際連盟を脱退することになります。昭和8年2月24日のジュネーブで開かれた国際連盟総会で、中国の統治権を承認し日本軍の撤退を求める報告案が採択され、採択に反対する日本は、翌月27日に国際連盟を脱退しました。なお、同年10月にはドイツも国際連盟を脱退することになり、日独の2ヵ国の常任理事国が相次いで脱退するという事態となり、国際連盟(米国、ロシアは不参加)の集団安全保障体制は大きく揺らぐこととなりました。

 2月24日の国際連盟総会には、日本全権大使として松岡洋右ようすけ(外務省、満鉄副総裁、外務大臣歴任)が出席し、「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」と演説しましたが、賛成42、反対1(日本)、棄権1という形で各国の意思が示され、松岡ほか日本代表団は議場から退場しました。この歴史的な総会の状況を、翌日東京朝日新聞は朝刊2面で「連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く 総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す 四十二対一票、棄権一」の見出しで報じるなど、各紙は、松岡に対して好意的な報道を行いました。松岡ら日本代表団の帰国は、国民から大歓迎を受けました。しかし、松岡は何とか日本の正当性を連盟に理解してもらい何らかの妥協案を作り、国際連盟脱退を避けたいと思っていました。
しかし、時すでに遅し世論は国際情勢とは別の方向に進んでいくのでした。

なお、昭和天皇の国際連盟脱退の詔書しょうしょ(天皇が発する公文書)には、次のように書かれています。
「朕惟ちんおもフニ曩さきニ世界ノ平和克復シテ國際聯盟ノ成立スルヤ皇考之ヲ懌よろこヒテ帝国ノ参加ヲ命シタマヒ朕亦遺緒いしょヲ継承シテ苟いやしくモ懈おこたラス前後十有三年其ノ協力ニ終始セリ
今次満洲國ノ新興ニ当リ帝国ハ其ノ独立ヲ尊重シ健全ナル発達ヲ促スヲ以テ東亜ノ禍根ヲ除キ世界ノ平和ヲ保ツノ基ナリト為ス然ルニ不幸ニシテ聯盟ノ所見之ヲ背馳はいちスルモノアリ朕乃すなわチ政府ヲシテ慎重審議遂ニ聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ・・・・  裕仁 御璽」        (詔書一部  昭和8年3月27日 国立公文書館蔵)

 松岡は、「以前から迫り来る極東の危機に対して、満蒙は我が国の生命線であり、大和民族の要求は最小限度の生命線である。」として「日本国民はこの二つの主張をしっかり把握して、明治以来の国是である東亜全局の保持に向かって敢然邁進しなければならぬ。」と主張してきました。そして、「満蒙より大和民族が退却する日は、即ち大和民族の生存権が否認される時であり、日露戦争のためにわが国は十万の精霊と二十億の国帑こくど(国費)を犠牲としたにもかかわらず、それは国家の存亡までを賭(か)けることになる。」とまで言いきります。
また、満蒙は不況の真っただ中にあった中小企業にもその進出を促しました。昭和7年3月1日の満洲国建国翌日の大阪朝日新聞は、「絶望のドン底にあった中小商工業者も起死回生の新天地を求むべく、嵐のような満蒙熱の真只中に飛び込んで満蒙へ! 満蒙へ! と殺到」と報じ、満蒙には輝かしい経済的救世主であるとの記事を載せています。

 しかし、このような国を挙げての満蒙進出について、始めから反対の一貫した姿勢を取り続けた人物がいました。彼は、政治外交的にも意義を唱えるばかりではなく、経済的にも大きな問題があると主張しました。軍国主義一辺倒の戦前の日本において、このような正論を吐く人物を知り、飛び上がるような驚きでした。この考えは、18世紀後半から19世紀にかけてイギリスの植民地領土拡張に反対し、イギリス本国の政治、経済的負担をできる最小限にとどめ、自由貿易主義により国力を強化しようとする小イギリス主義に習い、日本もいたずらに領土拡大に走らず植民地経営による行政コスト、軍事コストを最小限に抑え、それらの国との交易による通商国家を目指すべきという意見です。

(参考資料)
「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」 朝日新聞社 1995
「東亜全局の動揺 ―我が国是と日支露の関係満蒙の現状」 松岡洋右 経営科学出版 2019
「キメラ 満洲国の肖像」 山室信一 中公新書 1993 
「満州事変から日中戦争へ シリーズ日本近現代史⑤」 加藤陽子 岩波新書 2007
「それでも日本人は戦争を選んだ」 加藤陽子  新潮文庫 2016

松岡洋右 ウィキペディアより

国際連盟総会で演説する松岡洋右

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