中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―  第117回 監査の道

 日本が中国東北部において、重工業の開発や鉄道などを通じて産業投資を行い、電力、通信、病院、学校などのインフラ整備などで発展してきた満州も昭和20年8月8日のソ連の宣戦布告と満州侵攻により、あっという間に崩壊してしまいました。そして、満州国の産業設備はすべてソ連に持ち去られました。

 昭和6年(1931年)9月中華民国の奉天(現瀋陽市)郊外の柳条湖付近で、関東軍が満鉄の線路を爆破し(9.18事件・柳条湖事件)、関東軍による満州全土の占領を経て、日本と中華民国との間に武力紛争(満洲事変)が起こりました。この事件は、その後の満州国の建国や、日中戦争へつながっていくことになります。
そして、新聞を主としたマスコミは、中華民国はけしからん、政府は弱腰である、もっと強硬な態度を示せと国民を鼓舞し始めました。当時の大新聞は朝日と毎日の各新聞社でした。朝日は、大正デモクラシー以降一般に反軍的という評価が定着していましたが(「言論統制」佐藤卓己 中公新書 2004)、昭和6年の軍部(在郷軍人会)の不買運動などにより、大阪の営業部からこのままでは経営へ悪影響があるなどの訴えがあり、同年10月の役員会で軍部寄りに路線転換したとされています(「朝日新聞の大研究―国際報道から安全保障・歴史認識まで 古森義久他 扶桑社文庫 2003」)。大新聞社の経営の根幹はその販売と広告にあり、多大の設備と人件費負担があり、経営を続けるためには売れる新聞、世論の指示を受ける新聞になることが必要であり(「満州事変勃発当初の軍部の新聞対策と論調に対する認識」佐藤勝矢 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.6 2005)、そのため会社組織として軍部の方針を支持する紙面づくりに転換することにしたわけです。

 昭和6年の東京帝国大学の学生に対するアンケートで「満蒙(南満州と内蒙古)に武力行使は正当であるか。」との質問に対して88%の東大生が正当であると答えています。当時の最高学府の学生は、少数の知識人であり政治、経済、哲学など一般人をはるかに超えた国際常識をもっていたと思われますが、その学生の戦争の認識はそのようなものでありました。現代では想像できないかもしれませんが、当時は明治17年の日清戦争、明治37年の日露戦争などにおいて軍事費は増加し続け、昭和6年の日本の国家財政に占める軍事費割合は30%を越えており(令和3年度の防衛予算は国家予算の5%)、また、昭和6年の世界大恐慌から不況が続き、国家の救済の手段として戦争による国土拡大が当たり前の意見だったものと推定されます。日露戦争の勝利の時は、樺太の北緯50度以南の土地や満鉄などを得ましたが、日清戦争とは比較にならない戦費を必要としました。そのため、明治37年と38年には、特別税として第1次、第2次非常特別税により臨時的な増税が行われました。それは、地租、営業税、所得税、酒税などの増税でした。(明治時代の租税収入の割合は「第85回監査の道参照。」)日露戦争のために要した臨時軍事費及び各省臨時事件費は約20億円となり、この財源として公債による16億円、そして増税によるものが 2億円余となっています。この増税は、日清戦争後の国家予算2億円に匹敵するものとなっており、大変な負担でした。 さらに、明治37年財政難から大蔵省は相続税の創設を検討し、翌年4月1日から相続税が恒久的な税として施行されました。結果的には日露戦争という非常事態がもたらした税制ということができます。日本がロシアに請求した賠償金12億円は実現しなかったため、国民の不満が爆発し講和条約反対を唱える民衆による国民集会は暴動となり、日比谷焼き打ち事件が起きる程でした(第99回監査の道参照。)。この日露戦争は多大な犠牲と国費を費やし「十万の英霊と二十億の国帑こくど(国費)」と呼ばれ、その呪縛から満州を手放すことができず、その後の和平の道を閉ざすことになりました。
 このような戦費調達のための増税を近年我々も経験しました。それは、平成3年、イラクがクウェートに軍事侵攻し勃発した湾岸戦争にかかわる平和回復活動の支援のため、多国籍軍支援(主要国34ヵ国の連合軍)のために日本政府は総額約1兆8000億円の負担をしました。そしてこの一部に充てるため、湾岸戦争臨時特別税として約7000億円を法人税額の2.5%の臨時法人税と臨時石油税で賄ったことは記憶に新しいです。

 日露戦争は中国東北部と対馬近海で行われた部分戦争であり、ロシアに攻め入ったものでもありません。兵士とその家族を除いて戦争には直接かかわらず、景気停滞や増税などによる影響により間接的にしか戦争を感じていなかったのです。日露戦争時、参謀総長として作戦指揮にあたった山県有朋やまがたありとも(松下村塾出身、元老)は、日本はロシアに勝ったといっても、その勝利は限定されており、ロシアの復讐的南下は必ず生じるもので、今回の和平はやや長期的な休戦に過ぎない、と考えていました(「日露戦争史」 横手慎二 中公新書 2005)。そして、それから40年後、本稿の冒頭の記述どおりになってしまうわけです。
 先の太平洋戦争でも、開戦後は南方で戦っている兵隊さんを励まし、内地の国民は銃後の守りをしっかりして贅沢をしないようにしようという生活でした。新聞が報じる輝かしい戦果に日本中が沸き上がっていたのでした。しかし、開戦翌年ミッドウェー海戦において日本の艦船が大打撃を受け、次第に戦局は日本にとって不利になり、敗戦につながったことは戦後では周知の事実であります。

 さて、この柳条湖事件が発生したため、中華民国国民党政府(蒋介石)は、国際連盟に提訴して事実関係の調査を求めました。翌昭和7年国際連盟理事会はいわゆるリットン卿(英国政治家・貴族)ら5名の委員からなるリットン調査団(国際連盟日支紛争調査委員会)を設置し、現地を調査することになります。まず始めに調査団は2月に東京に着いて聞き取り調査を始めました。調査団は3ヵ月にわたり東京、上海、南京、漢口(武漢市の一部)、北平(現在の北京市)、満州各地(奉天、長春、哈爾浜はるびんの各地で調査しました。リットンらは東京で犬養毅いぬかいつよし首相、荒木貞夫あらきさだお陸相ら政府要人と相次いで会見し、日本の言い分を丁寧に聞きました。調査団一行は日本の訪問先で歓迎を受け、昭和天皇主催の宮中午餐会や皇室ご料地のカモ猟にも招待され、また、京都では料亭で芸者を交えての宴会も開かれました。そして奈良、大阪を経て神戸港から上海に向かいました。対馬沖では、船上でバルチック艦隊を破った東郷艦隊の話しが行われたとドイツ代表のシェネー議員は記しています。政府は、調査団一行を歓迎してもてなしたのは、調査結果が日本に有利になるようにとの思いが、あったのかもしれません。
 このような世界的な調査団の派遣はこのほかにも多くありました。例えば、平成23年3月東日本大震災の津波による福島第1原子力発電所事故についてIAEA(国際原子力機関)は日本に調査団を派遣(5月)して、大規模な津波の襲来に対する対応が十分ではなく、シビアアクシデント(過酷事故)の場合の事故対応や訓練が十分に行われていないなどの内容の報告書を発表しました。また、現在、世界的な新型コロナウイルスの蔓延の起源を探るためにWHO調査団は中国武漢市を訪問して調査を開始しましたが、中国がこの調査を認めるまで数か月間の交渉がありました。そして、今この調査報告書の結果を世界中が注目しています。

(参考資料)
「それでも日本人は戦争を選んだ」 加藤陽子  新潮文庫 2016
「リットン報告書全文」 国際聯盟支那調査委員会編 1932 国立国会図書館デジタルコレクション
「満州国見聞記 リットン調査団同行記」ハインリッヒ・シュネー 講談社学術文庫  2002
「相続税100年の軌跡」 菊地紀之  税大ジャーナル  2005

5名のリットン調査団
「満州国見聞記」より

Victor Bulwer-Lytton ウィキペディアより

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