中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―  第116回 監査の道

 満鉄に関する話しの最後に、満鉄に貢献した外交官杉原千畝すぎうらちうね(明治33年-昭和61年)について述べたいと思います。杉原は、1940年(昭和15年)第二次世界大戦の独ソ戦が始まる前に、リトアニア・カウナスの領事館において、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ難民に対して日本の外務省の許可なくビザを発給して、約6千人のユダヤ人の命を救ったとされています。1985年(昭和60年)イスラエル政府からユダヤ人を救った人だけに贈られる「諸国民の中の正義の人」(Righteous Among the Nations)の称号を授与され、その名が広く世に知れ渡りました。

 杉原は明治33年に岐阜県中南部の八百津町やおつちょうに生まれ、父親の好水よしみは税務署に勤めていました。杉原は、大正8年外務省留学生試験を受け、大学を中退して外務省の官費留学生となりました。当初スペイン語を希望していましたが、今後のロシア語の重要性からロシア語講習生となりましたが、このロシア語専攻が、今後の杉原の人生に大きな影響を与えることになります。杉原は、1919年(大正8年)官費留学生として中国の哈爾浜はるびん市(哈尔滨市)に派遣され、哈爾浜学院(後の満州国立大学哈爾浜学院)でロシア語を学ぶことになります。
 哈爾浜は、中国最北部の黒龍江省の省都で黒龍江こくりゅうこう(アムール川)を挟んでロシアと国境を接しています。筆者は、20数年前の夏、アムール川に接するハバロフスクを訪れ、対岸を見ましたが川幅が広く中国は見えませんでした。当時は、観光客はいなく日ソ旅行社というソ連専門のツアー会社にビザなどの手続きを依頼し、ビザが下りたのは出発日の3日前でした。新潟からアエロフロート社のツポレフという機種に乗り、空調もきかず、着いた空港ではスローな入国手続き、またホテルまでのバス便がなく、タクシーの相乗りでした。当時、クーデター後のエリツェンの時代に入り、混乱していた時期でもあり英語が通じないと思いNHKのロシア語会話を習つての決死の旅行でした。ホテルのフロントでは、大きな紙に書いて部屋と宿泊客の管理をしていましたが、これではミスが出やすいと感じましたが、やはりミスが出ました。しかし、解決策はしっかり取られています。客との手違いやミスは、すべてホテル側が正しいことに決められており、クレームも口論も無意味で直ぐ解決します。ロシアの家庭に招待されたりいろいろな思い出がありますが、話しを戻します。この学院では、第二外国語として中国語、英語などと共に、経済、簿記などの科目も見られます。杉原の学院での成績は飛び抜けて良く、卒業後は外務省職員の身分のまま学院でロシア語講師を務めることにもなりました。そして、大正13年杉原は白系ロシア人クラウディアと結婚します。この結婚は、ロシア人コミュニティから信頼を得ることにつながり、ロシア情報の収集と分析で重きをなす重要な背景になった、との指摘もあります。

 そして、昭和7年満洲国が宣言され関東軍が支配するようになると、哈爾浜の情勢は大きく変わり、同年哈爾浜の日本総領事館にいた杉原は、満州国政府の外交部に出向することになりました。ここで、杉原は、ソ連から売却の申し入れを受けた東清鉄道の買収での重大な交渉を担当することになります。東清鉄道(後の北満鉄道)は、ロシア政府が清国政府からの承認の基に、満州北部を横断し、哈爾浜などを経由する鉄道を敷設し(明治36年)、シベリア鉄道の連絡線として機能していました。東清鉄道を買収すると、ちょうど満州国にTの字の形で鉄道線がつながり、縦の線が満鉄で、横の線が東清鉄道になります。

 1933年(昭和8年)ロシア革命後のソ連は、北満鉄道の売却額として6億2,500万円を要求し、これに対し、満州側は5,000万円を提示しました。両者の開きが余りにも大きいため、杉原は満州側の全権団書記長となり、現地で価格交渉にあたりソ連の価格計算基準について詳細に調査しました。その結果、ソ連側は都合の良い評価方法を用いていることその評価資料も示していないこと、さらに列車妨害事件などについてもソ連側に提示しました。ソ連側も外務省の電報を傍受して日本の謀略工作を内外に公表して応戦しました。当時の日本政府の交渉責任者は、駐ソ大使経験の広田弘毅外務大臣(翌年首相)でした。広田の粘り強い対ソ交渉の末、ついに1935年(昭和10年)になり双方で買収価額が一致して決まり、東京で調印式が行なわれました。その金額は、なんと当初ソ連側の提示額の五分の一の1億4,000万円でした。日本の国会とマスコミは、広田の功績として賞賛し、東京朝日新聞は紙面で「北鉄譲渡協定調印を了す、満洲国の所有に帰し日満露親善の礎成る、盛観・歴史的な調印式」(昭和10年3月24日)と報じました。もちろん、事務交渉役の杉原の名は国民は知る由もありませんでした。杉原にとっては、ロシア人のネットワークなどを使い現地を走り回って貴重な情報を集め、また高いロシア語能力と諜報能力の成果によりソ連との情報戦に勝利したものといえるでしょう。そして、同年7月杉原は満州国外交部を辞職し、日本の外務省に復職するため帰国することになります。

 平成26年9月、筆者はポーランドからバルト3国の旅に出た時、リトアニアのカウナス市にある旧日本領事館を訪れ、杉原が勤務していた部屋や記念品などを見学する機会を得ました。閑静な住宅地にある領事館建物の1階部分を住居として、半地下部分を領事館として使用していました。この領事館時代の生活については、一緒に暮らしていた杉原幸子夫人の書「六千人の命のビザ(朝日ソノラマ刊)」に詳しく述べられています。
また、平成27年12月に公開された映画「杉原千畝スギハラチウネ」では、満洲国外交部の一員として働く杉原(唐沢寿明)は、白系ロシア人と共に、ソ連との北満鉄道譲渡交渉を有利に進めるための、諜報活動を行って、交渉を有利にすすめたが、情報収集のための協力要請をしていた関東軍の裏切りにより、ともに諜報活動の仲間たちを失い、失意のうちに満洲国外交部に辞表を提出し、日本に帰国するストーリーが映し出されていました。

(参考資料)
「千畝」 ヒレル・レビン  清水書院 1998
「真相 杉原ビザ」  渡辺勝正 大正出版 2000
「諜報の天才 杉原千畝」 白石仁章 新潮社 2011
「杉原千畝 情報に賭けた外交官」 白石仁章 新潮文庫  2015
「広田弘毅 悲劇の宰相の実像」 服部龍二 中公新書 2008

杉原千畝

杉原が使用していた領事館の机

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