中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 ―会計監査はどのように役立つか―  第99回 監査の道

明治の後期には、日本に近代工業が育ってきました。また、そのための法整備も進み、大日本帝国憲法の施行を始め、商法、民法が制定され、国民の権利・義務が明確にされてきました。また英国と清国のアヘン戦争から、欧米列国に負けないように日本は軍事力や経済力を強化する政策が推し進められていきました。その後、日清・日露戦争を経て、領土問題の重要性にも気付きました。日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)は清国やその領海において行われたもので、多くの兵士の犠牲者が出た(日露戦争での日本側死者は約8万4千人、日清戦争の約10倍。)とはいえ、国民の多くはある意味で他国での戦争の感を抱いていたように思えます。兵士とその家族を除いて戦争には直接かかわらず、景気停滞や増税などによる影響を受けるなど、間接的に戦争を感じていたのです。このような同じ状況として、現在の日本人が経験したことがあります。それは、平成3年、前年に勃発した湾岸戦争にかかわる平和回復活動の支援のため、多国籍軍支援のために負担した約1兆8000億円の一部に充てるため、湾岸戦争臨時特別税として約7000億円(臨時法人税と臨時石油税)を国民が負担したことです。

 さて、日清戦争後の経済政策は増税を伴う財政規模の拡大による次のようなものでした。軍備の拡大、製鉄所の設置、鉄道の拡充、海運・造船の奨励、特殊銀行の設立(日本勧業銀行、北海道拓殖銀行、日本興行銀行など。)、台湾経営など。造船所については、江戸末期において近代化のために幕府が重要性を認識し、横須賀造船所(「社会人のための監査論」第66、67、69回参照)の建設を始めました。明治34年に操業した官営八幡製鉄所は日清戦争で得た賠償金により造られました。日露戦争については、その勝因は、明治初期における欧米からの軍事技術の導入、国策による製鉄所や造船所の急激な発達、英国という最強の国と同盟関係にあり援助を得られたことなど、いくつかをあげることができます。しかし、日露戦争の結果、樺太の北緯50度以南の土地を得ましたが、賠償金(日本は賠償金12億円を要求。)については実現しなかったため、明治38年9月戦争のための増税、徴兵などに不満を抱えた国民が政府を糾弾して(講和条約に反対する国民集会)暴動となり、日比谷焼き打ち事件が起き、東京は無秩序状態となってしまいました。

 二つの戦争の臨時軍事費特別会計支出を見ると日清戦争が2億円、日露戦争が15億円であり、日露戦争開始前明治33年の国の歳入が2億9600万円であったのと比べるといかに日露戦争の財政負担が大きかったかが分かります。従って、戦費は租税収入だけでは足りず、日露戦争外債10億円発行のあと、大正2年までにわたり国債、地方債、満鉄債など9億円以上がロンドンを中心に発行されました。そして、大正3年には15億円の債務超過に陥ってしまいました。
 しかし、大正3年に勃発した第一次世界大戦は、日本経済を大きく転換させて、急激に拡大させました。これまで世界の工場としての役割を果たしてきた欧州が戦場となり、物資の供給が滞ったため、日本に特需が発生し、輸出が増え、貿易収支はあっという間に黒字に転換し、大戦ブームが沸き起こりました。歴史の不思議ですが、我々はこのような戦争特需を、第二次世界大戦後に再び経験します。

 このように国際情勢などから大きく影響を受けながら日本経済は拡大していきます。そして、その源となるものが近代的な企業の創業・発展です。三井・三菱などの財閥がコンツェルン(持ち株会社による企業の結合体)を形成して、独占的地位を確立していきました。企業が健全に発展していくためには、その経営の状況を正確に表す会計制度や検証制度、すなわち監査技術も必要とされてきました。そして、ついに大正3年7月わが国最初の監査について書かれた書物「実用会計監査法」(スパイザー、ペルグラー共著 岡田誠一訳)が帝国会計協会(明治42年 会田勘左衛門が設立)から発刊されました。

(参考資料)
「概説日本経済史」 三和良一  東京大学出版会  1993
「日露戦争史」   横手慎二  中公新書  2005
 

ポーツマス講和談判図 明治38年 聖徳記念絵画館蔵

東郷平八郎像 横須賀市三笠公園

関連記事