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社会人のための会計と歴史-会計はどのように役立つか- 第138回 会計の道

前回、日本は青島でのドイツとの戦いに勝利し、この戦いで多くのドイツ軍捕虜が囚われ、日本各地の捕虜収容所に移送され、そして、1919年(大正8年)のヴェルサイユ条約(パリ講和条約)の締結により解放され、そのまま日本に残り事業を始めたドイツ人のことを話しました。
このパリ講和条約は、第一次世界大戦終結後(大正7年)、米・英などの連合国がドイツ・オーストリア・トルコなどの中央同盟国との講和条件等について討議した会議(1919年、大正8年1月18日~6月28日)によって締結されました。そこでは世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく国際連盟を含めた新たな国際体制の構築についても討議されました。
当時、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことにより、連合国側に立って参戦し、ドイツと戦いました。従って、戦争終結後は戦勝国となり、パリ講和会議で「五大国」(イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリア)の一つとして、最重要問題について議論することになりました。
その結果、ドイツは国土の一部とすべての海外植民地を失い、巨額の賠償金の支払責任を負わされました。このことがドイツを窮地に陥れ、ナチズムが台頭し軍備が増強され、わずか21年後に第二次世界大戦へと突き進むことになります。

日本は、パリ講和会議に首席全権として西園寺公望さいおんじきんもち(嘉永2年~昭和15年、文部大臣、外務大臣、総理大臣なとを歴任し、私塾立命館、現在の立命館大学の創始者でもある。)をはじめとして総勢64名からなる全権団を送りました。
講和会議に参加した各国の人員は、英国184名、フランス836名、米国108名などと多人数であり、その規模の大きさと重要性が分かります。このパリ講和会議において、日本は山東間題の議論のほか、設立を準備している国際連盟の規約のなかに、外国人に対し人種や国籍による差別をしてはならないとする人種差別禁止条項を明文化することを提案しました。
しかし、アメリカでは人種差別問題は自国内の間題であり、イギリスも自治領であるオーストラリアの白豪主義があり、それぞれから強い反対に合いました。日本は粘り強い交渉をして他の国の賛同は得ましたが、残念ながら人種差別禁止案は採用されませんでした。
国際連盟設立から100年後、いま国連は2030年までにあらゆる経済・社会問題を解決しようとして、SDGs(持続可能な開発目標:Sustainable Development Goals)を採択して、具体的な目標を立てました。国連に加盟している193ヵ国すべてが目標に向けて努力中ですが、そこでは人種差別、男女差別、経済格差、労働格差などの幅広い差別問題の解消がうたわれています。パリ講和会議から100年経っても、なお差別・格差問題は未だに解決されていないのです。
なお、余談ですが、西園寺は生涯結婚せず正妻はいませんでしたが、彼は講和会議のパリに女中頭奥村花子を同行させ話題になりました。西園寺家には何人かの女中がいましたが、その名前は、お花さん(奥村花子)やお綾さん(漆葉綾子)など立命館史資料センター資料「懐かしの立命館西園寺公望公とその住まい」でも確認できます。大正の時代とは、そういうことが許される時代だったのです。西園寺は、帰国後講和会議の功績により最上位の階級である公爵の爵位(公・侯・伯・子・男)が与えられました。ちなみに渋沢栄一は、大正9年の80歳の時に長年にわたる公益事業への功績により男爵から実業家としてはこれまでの最上位にあたる子爵へと陞爵しょうしゃく(爵位があがること)しました。

集合写真

パリ講和会議日本全権及び随員記念写真
大正9年6月  国立国会図書館

渋沢栄一は、パリ講和会議から西園寺らの帰国時に合わせて、東京府知事、東京市長、東京商業会議所会頭らと共に東京府市民主催の歓迎祝賀会の発起人となり、帝国ホテルにおいて大正8年9月9日祝賀会を開催しました。祝賀会の席上、栄一は東京府市総代として、次のような祝辞を述べました。
「講和全権委員侯爵西園寺公望閣下は、大命を拝して海外万里に使わせられて以来ここに八ヵ月経ち、今や使命を終えられて帰朝せらる。東京府市民感謝にあたはず、ここに閣下の来臨を仰ぎ歓迎の申べむと欲する。思うに大正三年勃発した世界の戦乱は其の地域の広大なる其の関係国民の多衆なる惨禍の劇甚なること、有史以来未だかつて見ざる所にある。我国はこの会議に臨みて列国と共に幾多重要案件を決定すべき必要あるのみならず、世界永久の平和を招来すべき基礎を確定せざるべからず、その千載一遇の時に当りて閣下の大命を拝せられたるは良にありといふ可し。・・・我国は講和会議中五大国の一に列し、廿七国並立の局面に在りて能く優勢の地歩を占め得たるもの、実に閣下の功いさないはざるべからず。・・・」
このように、西園寺らを最高の祝辞で迎えました。

さらに、「西園寺公爵は今迄幾度か欧米を漫遊せられたが、今回の御旅行ほど御感慨の深かった事はなからうと思ふ。国力の発展の大なるものを感ぜられた事と思ふ。想へば日本の発展は驚くべきもので、幕末には外国の侵略を受けはせぬかと憂へたのが、今は二十七ヵ国の連合国からぬきんでて五大強国として講和会議の首班に列し、東洋の盟主たるの実を発揮した。侯爵が此の会議に列し力を以て大国として恥ざるの効果を収められたたのは国民の共に感謝に堪へない所である。」と演説し、現在の日本の国力の発展や強国としての扱いを喜び、誇りに思う気持ちを表しました。
大正の時代のこの頃は、日本が連合国の一員として勝利し、中国の権益も得てさらに五大強国の一国として、まさに国民全体の士気が高揚していた時期であるといえます。
しかし、それから十数年後、欧米から日本の軍事行動が批判され、国際連盟を脱退し、さらに連合国を敵に回して戦うことになるとは国民誰一人として思ってはいなかったことでしょう。

なお、国際連盟とソ連について話しますと、ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、1939年(昭和14年)11月にフィンランドに侵攻しました。この武力侵攻した結果、国際連盟はソ連を侵略国として連盟から脱退させました。
フィンランドは、圧倒的なソ連の軍事力に不利な戦い(いわゆる冬戦争)を強いられましたが、善戦し翌年モスクワ講和条約を締結し、戦争は終結しました。しかし、フィンランドはこの戦争によって領土の一部がソ連に奪われました。また、1941年第二次世界大戦が始まると、フィンランドは、この冬戦争の継続としてソ連と戦うことになり、ドイツ側につきました(いわゆる継続戦争)。そして終戦後は、ドイツや日本と同じ敗戦国となり賠償金をロシアに払うこととなります。
ソ連は第二次大戦では、連合国側に付き、英米と共に国際連合の設立にかかわり、戦勝国として自国の領土と権益を広げました。大戦終結1年前の1944年8月には、米英とロシア・中国による国際連合憲章草案が作成され、翌1945年2月には、ソ連のヤルタ(現在のウクライナのクリミア半島の保養地)で英米ロシアによる大戦後の国際体制構想を決めました(ヤルタ会談)。
大戦終結後は、米ロは冷戦状態にはいり、結局ソ連は崩壊しロシアとなり、そして今ウクライナに武力侵攻して、国連から非難決議を受けています。
まさに歴史は繰り返し、いつの時代になっても人間の保身意識、国家意識は変わらないように思います。

宮殿

会談が行なわれた
リゾート地ヤルタのリヴァディア宮殿

さて、この栄一の祝辞に応えて、西園寺も多くを述べましたが、その中で人種差別については、「人種差別待遇撤廃の件に関しては我委員は実に奮闘努力の限りを尽しましたが、遂に目的を達せずして本件の解決を他日に譲るのやむなきに至りましたのは、私等一同の深く遺憾とする所であります。」と述べつつも「この世界大戦の終局に際し我国が国際間において孤立の地位に立つが如きことないように、我国は講和会議においてよく列強と協調を保持することを得たるのみならず、同会議を機会として国際政局における帝国の地位を著しく向上させたのであります。」と自賛しています。
しかし、西園寺は、会議の出席回数は少なく、会議においても発言の出番はあまりなかったとされています。

ヴェルサイユ条約により、戦後安定を見せたかのような国際情勢は、アメリカの国際連盟不参加などにより、不安定な情勢へと変わっていきます。アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした連盟の加盟は、アメリカ議会の承認を得られず、参加を見合わせざるを得ませんでした。民主党のウィルソンらは、アメリカの伝統的な外交政策の原則であったモンロー主義(孤立主義)を変えて、国際問題に積極的に関与する姿勢を打ち出しました。
しかし、共和党の保守派は伝統的な孤立主義を続けるべきだと主張しました。そして、ヴェルサイユ条約をアメリカ国内で批准するとき、共和党議員が多数を占める上院で否決されてしまいました。
その後、さらに日本、ドイツ、イタリアも脱退し、国際連盟が機能不全のまま第二次大戦に突入していったわけです。2017年第45代アメリカ大統領となった共和党のトランプ大統領は、アメリカ第一主義(アメリカ・ファースト)を掲げ、国際協調よりも自国の利益を優先させる外交政策をとりました。
これは、トランプ大統領が初めて言い出したことではなく、アメリカの100年以上前からの外交政策の原則であったわけです。従って、直ぐ気候変動問題を取り決めたパリ協定、世界保健機関(WHO)、ユネスコなどを脱退してしまいました。ここでも、歴史の繰り返しが見られます。

パリ講和会議のあと、主要戦勝国の利権の調整の場として、1921年(大正10年)アメリカ、イギリス、日本、フランスの4か国で、各国が太平洋方面にもつ属地や領土、権益などの相互尊重と平和的解決について協議が設けられ、四ヵ国条約が決められました。この条約により、1902年から約20年間にわたって日本の大陸政策を支えてきた日英同盟は廃止されました。この日英同盟廃止問題について、栄一は継続するよう強く訴えました。
彼は、この日英同盟によりわが国の安全や経済が順調に進み、それが世界平和に貢献している。それなのに、日本人の多くが日英同盟の継続に熱意が無く、また財界や商業会議所もその継続のために熱心に活動していないのは大変遺憾であると憤慨しています。
栄一は、大正9年に経済関係を軸とする日中関係の再構築を意図した「中華実業協会」設立し、会長に就きましたが、対中投資には日英同盟による英国との強調、協力が必要であり、英国との同盟は続けなければならないと考えてしたわけです。
また、この年には、中国の主権尊重、領土保全、門戸開放などを取り決めた九ヵ国条約(米・英・仏・伊・蘭・白・葡・日・中)の締結により、日本がドイツから獲得した青島などの租借地は中国に返還されることになり、日本軍は撤退をすることになりました。
結局、多くの犠牲のもとに獲得した青島は元に戻ったわけです。しかし、青島地域は、自由貿易地域として、外国企業の進出を促し、経済発展することになります。
第一次世界大戦時は、日本経済は未曾有の戦時好況になり、主要産業である紡績・製糸業は大いに発展しました。しかし、大正9年(1920年)から戦後不況に見舞われ、青島の低賃金の労働力を求め日本の多くの大手紡績業が進出しました(これらを「在華紡」といいいます。)。日本軍が撤退してからも、民間投資によって青島の紡績業は発展を続け上海に次ぐ中国第2位の生産拠点となりました。
大阪の商社であった内外綿会社は紡績業に進出し、最新の機械を導入し、日本的経営管理方式で第9工場の設置まで事業を拡大し、中国最大の紡績会社に成長しました。
しかし、日中戦争が激化し、工場の爆撃などの被害にもかかわらず日本の敗戦まで操業は続きましたが、戦後は中国側に接収され在華紡は消え去りました。

(参考資料)
「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」  渋沢栄一記念財団
「歴史に学ぶ経営学」 吉沢正弘  学文社  2013
「物語 フィンランドの歴史 」 石野裕子  中公新書  2017
「西園寺公望-最後の元老-」 岩井忠熊 岩波新書 2003

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