アカウンティングロード

社会人のための会計と歴史-会計はどのように役立つか- 第137回 会計の道

人の縁というのは分からないものです。
現在、ハウステンボスの売却が話題になっていますが、筆者はこれまで3回も行きました。しかし、新しくオランダの街を似せて作った街ですので、いつか本当のオランダに行ってみたいと思っていました。
そうしましたら、勤務先の監査法人との提携先であった米国に本部があるアーサーアンダーセンがエンロン事件などで崩壊し、その代わりオランダに本部を持つKPMGとの提携が直ぐ決まり、海外拠点を失うことなくうまく対応できました。そして、オランダのサステナブルチームと一緒に仕事をする機会が出て、アムステルダムなどに数回出かける機会を得ました。
また、オランダでのチームへの挨拶時に、日本とオランダは出島という場所を通じて500年以上も貿易の歴史があることを話しました。この日本との歴史はオランダの小学校でも教えていることも聞きました。
また、アムステルダム中央駅の立派なことに驚き、東京駅に似ていると感じました。しかし、日本銀行本店などを設計した建築家辰野金吾設計のレンガ造りのモダンな駅舎である東京駅は、特にアムステルダム駅とは関係がないそうです。

現在の東京駅は、大正3年(1914)12月20日に開業しました。開業してからもう100年以上経っています。
当時は、回りに建物もなく「三菱ヵ原」と呼ばれていたそうです。鉄道院は同年12月18日に開業記念式典を開催しました。
式典では鉄道院総裁の仙石貢や内閣総理大臣大隈重信、東京市長阪谷芳郎らが祝辞を述べました。また、記念式典発起人総代として、渋沢栄一も挨拶を述べ、話しの終りに、例として更海道五十三次の道中双六に例え、同双六において江戸を振り出し京都を上りとした道程も今や我が国運の進步と世界交通の発達により、東京を起点とし倫敦ロンドンを上りとなすほどの盛況に達するに至ったとして、これからの鉄道の利用により国の発展は国民の努力に待つものであると演説しました。

ドイツ

 

 

アムステルダム中央駅

 

なお、この日の開業記念式典は少し変わったものになりました。それは、大正3年日本は第一次世界大戦に参戦し、青島でドイツと戦い勝利しましたが、その指揮した神尾光臣陸軍中将らが凱旋して皇居に参内することになり、開業式に合わせて東京駅に到着する予定であったことです。
そこで東京駅で歓迎をしようということになり、午前10時30分に予定通り陸軍神尾中将、海軍栃尾中将らは東京駅に到着し、来場者から大歓迎を受けました。この記念式典の発起人総代は栄一のほか、東京市長阪谷と東京商業会議所会頭中野武榮ですが、開業記念式典の後に、帝国ホテルにて神尾中将らの歓迎式典が行なわれる予定になっていました。

その歓迎式典で、栄一は次のような歓迎の挨拶をしました。
「閣下及び各位は、日独開戦以来、敵の東洋における根拠地青島要塞の攻撃に従事し、勇戦奮闘により、これを占領して大いにわが武力を発揚し、国光を中外に顕彰せられたり、それひとえに閣下及び各位が国家のために身を忘れ義勇奉公の忠節を全うせられたことにある。・・・・・・すなわちここに歓迎会を設け満腔の赤誠をひらき、もって労犒ろうこう感謝の意を表す・・・。」

この祝辞に対して、神尾中将は次のような答辞を述べました。
「今夕は、東京市民及び実業家のご主催にて鄭重なる歓迎の宴を催されたるは深く謝するところなり、幸いに使命を全うして帰りたるも畢竟するに、・・・今後は商戦に移らざるべからず山東方面の商機を一手に掌握するが如きは、現に今夕この席上に列せらるる実業家諸君のお働き竢(ま)たらずべからず・・・。」
すなわち、今回の歓迎の宴は実業家主催のものであるから、陸軍は青島のドイツ軍を破り山東半島を制したので、今後はあなた達がそこで商戦をしてほしいと述べたものでした。実際、実業界は大正9年に、日中の経済関係を軸とする「中華実業協会」を設立し、栄一はその会長に就きました(136回参照)。

式典

 

 

東京駅開業祝賀会の渋沢栄一
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

青島でのドイツとの戦いは、大正3年11月にドイツ軍が降参し、青島要塞は陥落しました。
この戦いで多くのドイツ軍捕虜が囚われ、日本各地に設けられた捕虜収容所に移送されました。捕虜の数は4千名を超えていました。
彼らは1919年(大正8年)ヴェルサイユ条約の締結まで長期にわたって収容されましたが、当時の捕虜の収容所では、地元住民との交流もあり、ドイツパン、ドイツ菓子、ドイツソーセージ、ドイツ体操等が日本に広められ、なかにはそのまま日本に残る捕虜も現れました。ドイツのUボートに乗って転戦し、青島で捕虜となり日本へやってきたアウグスト・ローマイヤもその一人で、解放後日本で自分の技術を生かし、ドイツの誇る食品を日本に広めようと帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として働きました。
その後、大正10年合資会社ローマイヤ・ソーセージ製造所を設立し、銀座にもレストラン「ローマイヤ」を開きました。それから会社は発展し、今日の食肉加工品の製造販売をするローマイヤ株式会社となりました。

また、捕虜の中にドイツ中部ライン川沿いの町で、ビール職人の家に生まれたカール・ユーハイムがいました。
彼は、菓子職人として当時ドイツの租借地だった中国青島へ移り住み、喫茶店を始めました。その時、彼は民間人でありましたが捕虜となってしまったのです。カールは、妻と子供を残し、捕虜として日本に連れてこられます。当時は捕虜に対する扱いも人道的で、日本はハーグ条約を遵守し、食料や衣服等の支給は当然のこと、兵士の階級に応じた給与も支払っていました。

ある時、広島市物産陳列館で行われたドイツ捕虜の作品展示即売会で焼いたバウムクーヘンを出品し、これが意外にも日本人に受けました。
大正9年、ドイツとの講和によりドイツ人捕虜が解放され、多くの捕虜がドイツに戻ることになりました。しかし、カールは収容所から出所後も菓子職人として日本に残ることを決意します。そして、銀座の洋食屋の製菓主任として迎え入れられました。妻エリーゼと息子とも再会し、3年後には、独立して横浜に店を構えるまでになりました。
しかし、大正12年9月1日、関東大震災が横浜を襲い、店などすべてを失い命からがら神戸に逃げることになりました。そして、神戸でも店を構え、懸命の努力の結果店も繁盛していきます。しかし、また太平洋戦争の空襲で店も焼かれ、しかも終戦の前日昭和20年8月14日、カールは亡くなりました。
最後の言葉は、「俺にとっては菓子は神」でした。
妻のエリーゼはドイツに強制送還され、息子も戦死していました。

ユーハイム

 

カール・ユーハイム(1886.12~1945.8)
Wikipediaより

 

しかし、カールに指導された日本人社員たちが、妻のエリーゼを呼び戻し社長に迎えて、また店を再興しました。
そして、戦後この店は、発展し神戸に本社を置く株式会社ユーハイム(2021年度売上高230億円)となったのです。
ユーハイムのホームページには、「創業青島・・・・(中国)明治42年」、「横浜(日本)大正11年」、「会社設立昭和25年」と記されています。
彼らは、日本に捕虜として連れてこられなかったら、このような人生はなかったでしょう。
人の縁とは、良いも悪いも不思議なものです。

 

(参考資料)
「東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会報告書」 国立国会図書館デジタルコレクション 1915.4
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「ローマイヤストーリー」  ローマイヤHP
「神戸偉人伝外伝~知られざる偉業~前・後編カール・ユーハイム」 神戸っ子(KOBECCO)

筆者紹介

筆者紹介
元東洋大学 経営学部教授
税理士法人創新會計 社員   税理士・公認会計士 中村義人
朝日会計社(現あずさ監査法人)に入社後、製造・建設・情報・金融業などの監査およびアドバイザリ業務に従事。この間カンボジア、パプアなどの発展途上国で会計などの指導にもあたる。その後、監査法人代表社員を経て2004年あずさサステナビリティ(株)代表取締役に就任、環境会計、CSR報告書の審査等を行う。2006年からは東洋大学経営学部教授として教壇にも立つ。著書に「環境経営戦略のノウハウ」、「建設業会計業務ハンドブック」、「簿記会計ハンドブック」、「J・Vの会計指針」「キャッシュ・フローによる建設経営のすすめ」など。

関連記事