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社会人のための会計と歴史-会計はどのように役立つか- 第136回 会計の道

写真:「深谷市渋沢栄一記念館の渋沢栄一のアンドロイドの講演」

渋沢栄一の中国旅行は、大正3年5月2日に神戸港を出向してから、6月4日に門司港に帰港するまでの1ヵ月でしたが、その間懸案であった北京での袁世凱大総統との会談が実現しましたが、孫文とは会うことができませんでした。
前年2月に孫文が来日した時、栄一は孫文と会い、日中経済提携や日中合弁会社設立などについての協議を行ったのですが、この旅行には孫文訪問の予定はありませんでした。中国興業の設立も孫文の協力があったからであり、「革命後の支那は実業を持って立たねばならない。」と言った孫文に会わなかったのはなぜであったのでしょうか。栄一の訪問した時、孫文は南方地域を訪れていたため、という説もありますが、正確な理由は不明です。
しかし、大正2年(1913年)孫文は裳世凱に反乱した第二革命を起こし、敗北し日本に亡命することにもなり、袁との敵対関係もあったのではないかと推察します。
そして、大正15年(1925年)3月、孫文はガンに侵され療養先の北京で亡くなりました。

この時、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なお未だ成功せず、同志にってすべからく努力すべし)」との一節を遺言に記しました。
そして、その後は蔣介石が権力基盤を拡大していくことになります。孫文は、広東省香山県(現中山市)に生まれ、そのため中国では「孫中山」先生とよばれ、いまでも国父として尊敬を集めています。孫文の唱えた三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)は有名ですが、これは1924年(大正13年)孫文の講演をまとめたものです。この中で、民族主義が中国人に欠けてており、国の基に民族が団結する必要を説いています。そして、民族主義の成功例としてイギリスのアングロサクソンの他、日本について次のように述べています。

要約しますと「日本は一つの民族が形成したもので、それは大和民族である。国ができてから外力による併呑へいどんはない。蒙古の強盛をもっても征服できなかった。維新以来50年にして、アジアで最も強烈な国家としてヨーロッパ、アメリカの各国内と肩を並べるに至った。わが中国が軽視されるのは、民族主義がないからである。日本は、維新の前は国勢はひどく衰えており、領土は四川省の大きさで人口は6千万で四川省に及ばない。外国の圧制という恥辱を被むっていたが、民族主義の精神で強盛な国家に変わった。これまで、世界は白人に独占されてきたが、日本が富強になりえたので、アジア各国にかぎりない希望が生まれた。日本人はすすんでヨーロッパを学び、5大強国(英・米・仏・日・伊)の一つになった。だから、中国も日本のように学べば、将来ヨーロッパのようになることは明らかである。」

中山紀念堂内の孫文画

 

 

 

中山紀念堂内の孫文画

10年程前、「食在広州」につられて広州を訪れました。
若いころに読んだ邱永漢の本「食は広州に在り」(文春文庫)と毎年開かれる「広州交易会」の言葉が長い間頭の中にあり、やっと訪問の機会に恵まれました。訪問時は、ちょうど2月の春節の時で、温暖な気候のもと街には家族連れの人々がのんびり楽しんでいました。春節の時は、1週間休みになります。
なお、雑学に過ぎませんが、日本では戦前「広」の字は、「廣」と書いていましたが、戦後直ぐ連合国軍最高司令官マッカーサーが占領政策である国字簡素化と平明さを指示して、当用漢字表を公表して、現在のように「広」に簡素化されました。中国でも同じように建国後、毛沢東の文字改革に基づき、簡化字総表を公表して日本よりさらに簡略化した漢字が使われています。その結果、「廣」の字は「广」となりました。

ヨーロッパ風の街並みの広州沙面島

 

 

 

ヨーロッパ風の街並みの広州沙面島

 

広州市は北京市、上海市に次いで三番目に大きい都市(人口18百万人)で、広東省(人口1億2千万人)の省都でもあり、国際貿易の中心地となっています。秦の始皇帝が中国を統一(紀元前221年)した時代からの旧都です。訪問時、市内にある孫文を記念して建てられた「中山紀念堂」を見学しました。
堂の大きさと中に掲げられている巨大な孫文画に感銘を受けたのを覚えています。

ある大手旅行社による個人ツアーでしたが、日程表には広州空港から市内まで10分とありましたが、空港に着いてみると車は1時間近く走り続け、やっと市内に入りました。不思議に思いガイドに聞いてみると、市内まで10分は旧空港で、今は新しい広州白雲国際空港ができたとのことでした。なんと、大手旅行社でも中国の早い経済発展と空港建設に気づいていませんでした。

さらに驚いたのは、当時中国の大都市はスモッグによる空気の汚染が報道されており、PM2.5対応には普通のマスクではダメなのでN95認定の防護マスクをやっと見つけて、用意して行ったのですが、現地につくと広州は、緑豊かな公園や水辺が多く、誰一人としてマスクをしておらず、また空気もきれいで必要に感じませんでした。とても防護マスクをして街を歩く勇気はありませんでした。使わず、全部持ち帰りました。しかし、このマスクを現在のコロナ下の日本で使用することになるとは、夢にも思いませんでした。

中山紀念堂と孫文像

 

 

 

中山紀念堂と孫文像

 

さて、栄一は清国における鉄道、鉱山事業の調査設計及び投資を目的として、孫文らの協力の元に中日実業を作りましたが、この事業はうまく行きませんでした。そのような中で個別の企業ではなく、経済関係を軸とする日中関係の再構築を意図した「中華実業協会」の構想を考え、大正9年に設立し、栄一はその会長に就きました。役員は、会長渋沢栄一、副会長和田豊治(上海の日華紡織社長、日本の大手紡績業の多くが上海・青島などの中国都市に進出していた。)のほか、名誉顧問として岩崎小弥太、井上準之助、大倉喜八郎、古河虎之助、三井八郎右衛門など財界のそうそうたるメンバーがなっていました。この協会は、最終的には中国との政治的関係の修復をもめざし、中国市場に於ける国際競争に打ち勝つことも狙いとして、中国と経済的つながりを有する実業家により構成されました。

大正10年6月15日、帝国ホテルにおいて第一回総会が開かれ、栄一は議長として議事を進行し、また日中親善の必要性について演説を行ないました。日華実業協会規則によると、「第一条 本協会ハ日華両国ノ親善ヲ企図シ、相互ノ経済的発展ヲ増進スルヲ以テ目的トス。 第二条 本協会ハ日華実業協会ト称ス 第三条 本協会ハ本部ヲ東京市ニ置キ、必要ニ応シ各地ニ支部ヲ設ク。 第四条 本協会ノ会員ハ会社・銀行・商店及個人ニテ日華経済ニ関係ヲ有スルモノニ限ル。」などと決められていました。すなわち、中国と日本の経済発展のため、様々な経済協力を行なっていこうということでした。しかし、中国の政治の混乱のため経済状況は不安定化し、また日中関係は悪化の動きがあり、ここでも多くの難問が発生していました。

明治維新後、日本の自主独立や殖産興業をはばむ不平等条約改正の取り組みの中で、諸外国から日本には商工業の世論を結集する代表機関がなく、明治政府の主張は虚構にすぎないと指摘され、伊藤博文、大隈重信が渋沢栄一に商工業者の世論機関の設立を働きかけ、東京商法会議所(初代会頭渋沢栄一、現在の商工会議所)であり、栄一は対中関係において、このような組織を目論んでいたものと推察できます。栄一は、第一回総会のときに、次のように演説して、日中双方の政治的安定と協力の必要性について述べています。「支那関係の事業に従ふものの最も希望する処は、同国政界安定の一事に有る。そしてその安定を得るための有力な原因は、我国の対支方針の確立にあるが、我国の対支方針は終始一貫せず、・・・欧米列国より我国が領土的野心を有し、侵略主義を取るものの如く誤解せしむるに至りたるは、実に遺憾至極である。・・・対支政策の根本は支那自身のことは支那人自らをして処理せしむるに在り、我国は、常に支那の友邦として、終始一貫かんじらざる関係を維持するを以て要諦ようてい(物事の最も大切なところ。)とする。」そして、協会として、日中関係再構築の方途を政府、外務省に建議しました。

そのような時、大正12年(1923年)に中国側が一方的に対華21ヵ条条約(大正4年山東省ドイツ権益の日本継承、南満州・内モンゴル権益の期限延長などの条約)の廃棄通告を行いました。この条約では、日本がポーツマス講和条約でロシアから取得した旅順・大連の租借期間と南満州鉄道の返還期間を25年間、つまり1923年の中国返還と決めていましたが、ともに99年間に延長してその返還期限を1997年(何とイギリスからの香港返還の年。)に変更しており、そのため、中国国内では旅順・大連の返還と対華21ヵ条条約廃棄に関する国民運動が盛んになり、排日や日本製品の不買運動が頻発しました。このような状況下では日中経済協力は不可能であり、日華実業協会の活動は、やむを得ず排日運動の抑止を優先させることになりました。協会は、次のような排日排日貨運動に対する声明を出しました。「最近熾烈なる排日行動の支那各地に頻発せるは、実に我々の期待を裏切り、世論もまた一斉に強硬なる対策を高唱するに至れり。今ひるがえって大正9年本会の設立に当り、趣旨として本会の宣明したる所を顧みるに、『日支共存は基礎を経済的相互の提携に置くを以て其の第一義とすること』については何人も異議なき所なり、そして之を遂行するには先づ彼我ひがの意志を疎通し、相互の了解に待たざるは多弁を要せず。然るに共存の運命を有する両国民が反目排擠はいせい(他を押しのけたりおとしいれたりすること。)することは、我々の深憂する所なり。」

栄一は、東京高等商業学校(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)、日本女子大学、東京女学館など多くの学校の設立に資金援助をして商業教育と女子教育に力を注いだことは有名ですが、その数は実業教育48校、女子教育27校、その他の教育89校、合計164校にも及ぶそうです。(「渋沢栄一による私立学校の支援」 島田昌和 文教学院大学経営論集 第22巻第1号 2012年)栄一は中国においても商業教育のための学校を設立しようと考えていました。それは、大正10年に日華実業協会が青島チンタオ商科大学の設立計画に基づき開校準備を進めてきたことです。青島は、ドイツの租借地でしたが第1次世界大戦後、ドイツから日本に割譲されていました。
しかし、排日運動が起こり、大正12年9月1日に関東大震災が起こり、協会は止む無く設立計画の延期をせざるを得なくなり、結局大学の実現はしませんでした。

山東省青島市

 

 

 

山東省青島市

 

排日運動や関東大震災があっても、日華実業協会は困難の中でも活動を続けました。
しかし、1929年(昭和4年)10月ニューヨーク株式市場の暴落を機に始まった世界恐慌は、日本経済にも大きな影響を及ぼし(昭和恐慌)、企業の倒産や失業が増加しました。
さらに、昭和6年9月18日柳条湖事件に端を発する満洲事変が起こり、日中関係は益々悪化していきました。この事件は、満州の奉天(現、瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、関東軍が満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを中国軍による犯行として満州における軍事展開を進めたものです。直ぐ、国民党政府(蒋介石)は、国際連盟に事実関係の調査を求め、翌昭和7年国際連盟はリットン調査団に現地調査を依頼しました(社会人のための監査論 第117回~118回参照)。
中国側の反発はより強くなり、そして協会は昭和6年9月28日次のような新聞発表をすることになりました。「支那官民の我国に対する言動は逐年著しく常軌を逸し、友好国として許すべからずものあり。絶えず国民に対して排日の思想を鼓吹し、・・・全支にわたり不法なる排日排貨を行ひ、或は暴力を以って日貨を掠奪し、或は邦人の生命に危害を加え、・・・・・」
そして、この年の11月11日に栄一は91才で天寿を全うします。そして、「デジタル版渋沢栄一伝記資料6款日華実業協会」の記録も同年12月11日の「東京市公会堂において故渋沢子爵追悼会開かる。」が最後となっています。

(参考資料)
「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「孫文 三民主義」島田・近藤・堀川 中央公論社 2006
「革命家孫文」 藤村久雄  中公新書 1994

 

筆者紹介

筆者紹介
元東洋大学 経営学部教授
税理士法人創新會計 社員   税理士・公認会計士 中村義人
朝日会計社(現あずさ監査法人)に入社後、製造・建設・情報・金融業などの監査およびアドバイザリ業務に従事。この間カンボジア、パプアなどの発展途上国で会計などの指導にもあたる。その後、監査法人代表社員を経て2004年あずさサステナビリティ(株)代表取締役に就任、環境会計、CSR報告書の審査等を行う。2006年からは東洋大学経営学部教授として教壇にも立つ。著書に「環境経営戦略のノウハウ」、「建設業会計業務ハンドブック」、「簿記会計ハンドブック」、「J・Vの会計指針」「キャッシュ・フローによる建設経営のすすめ」など。

 

 

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