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社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第131回 会計・監査の道

渋沢栄一の第一銀行は、明治11年に釜山支店を開設して、第一銀行券を発行して中央銀行としての役割を果たしてきました。彼の韓国に対する認識は、厳しく否定的であったとされています。韓国民は、国王、官僚までも自国の危機を共有できず、国家の発達のために重要不可欠な貿易の意義さえ理解していないので、韓国においては提携・相協力するに足る勢力が欠如しており、そのため日本側が主導的に働きかけ扶植擁護ふしょくようごしなければならない、そしてその根底には韓国の独立性を保全し、その利源を開拓することが日本側の本務であると考えていました。従って、韓国の第一銀行を中心として金融業務を拡大し、日韓経済関係の緊密化、韓国自体の経済発展を目論みました。
そういう中で、明治38年に設置された韓国統監府の初代統監伊藤博文は、韓国に新たに中央銀行を設立して、中央銀行に発券機能を担わせる施策へ転換を図ることを考えました。伊藤は、栄一に対して「国家の権利に属する紙幣発行の特典を一私立銀行に付与し、一国金融の中枢機関たらしめるは宜しきを得ず。」、「特別の銀行を創設し、之に中央銀行としての任務を譲り渡すこととせんも異議なきか。」と問いましたので、栄一は面白くはなかったのですが、政府の意見であれば止むを得ないと、答えるほかありませんでした。
当初は、新中央銀行の設立、日本銀行の支店設置、第一銀行の継続の3つの案がありましたが、韓国統監府が韓国の財政の支配権を掌握するために韓国銀行案が採用されたものと思われます。そして、明治42年中央銀行として、韓国銀行条例に基づき存立期間50年として韓国銀行(後の朝鮮銀行)が設立されました。第一銀行は、業務とその行員全員を韓国銀行に引き渡しました。韓国銀行の資本金は1千万円、額面1株100円で10万株が発行されました。その内、3万株は韓国政府が引き受け、残りは公募となりました。株式募集は、292倍と予想以上の申し込みがあり、満鉄の株式募集以来の盛況でした(第103回監査の道参照)。
なお、韓国銀行は存立期間を50年(延長可)としましたが、明治23年制定の旧商法では、株式会社の登記事項として「存立時期ヲ定メタルトキハ其時期」を記載すること(第168条1項第7)になっており、当時の慣行によるものと思われます。明治40年の麒麟麦酒創立時の定款には、「第五條當會社ノ存立期間ハ向フ壱百箇年トス」とあります。

旧朝鮮銀行(現韓国銀行貨幣博物館)

旧朝鮮銀行(現韓国銀行貨幣博物館)

明治政府発足直後の日本の通貨制度は、混乱を極めており、伊藤博文は二つの大きな提言をしました。
一つは通貨における金本位制度であり、二つ目は国立銀行制度です。すなわち、明治4年に新貨条例を制定し、新貨幣単位である円とともに金貨を製造し、明治5年に国立銀行条例を制定し、明治6年に金貨に兌換できる国立銀行券を発行する国立銀行制度を作りました。しかし、しばらくは金準備が充分でなく、また経済基盤が弱かったため金貨の流出が続き、しばらくして実質銀本位制となってしまいました。
その後、明治38年貨幣法が公布され、欧米と並び日本も金本位制を再び実施することになりました。これは、日清戦争により清から得た賠償金3800万英ポンドの金を準備金としたものでした。
しかし、1929年(昭和4年)の世界大恐慌により金本位制は機能しなくなり、各国は金本位制を離脱することになります。そして、第二次世界大戦が始まり、その終盤の時期に戦後の世界貿易の円滑な発展のために、基軸通貨のドルのみを金と連動させる金・ドル本位制が考案されました。すなわち、1944年7月米国ニューハンプシャー州のブレトンウッズに連合国の代表が集まって連合国通貨金融会議が開かれ、戦後の金融体制が決められました。
さらに、翌年2月にクリミア半島のヤルタの保養地で米英露は、戦後領土分割や対日ロシア参戦なども秘密裡に決めていました(ヤルタ会議)。この頃は、日本は東京大空襲や沖縄戦をこれから迎えようとする時でしたが、このようなときに連合国ではすでに勝利した後の金融体制や領土などについて会議が始まっていたわけです。戦後、冷戦状態になりましたが世界経済は順調に発展して、米国のドルは多発され、ついに米国は金との交換が不可能となり、1971年(昭和46年)金・ドル本位制が崩壊しました(ニクソン・ショック)。当時筆者は、まだ経済社会には出ていませんでしたので、何故ショックなのかは良く分からず、実感もありませんでした。日本は戦後ずっと1ドル360円の固定相場でしたが、ニクソン・ショック後1ドル308円への切り上げが行われましたが、ドル売りは増え続け、ついに固定相場を維持できずに、昭和48年日本も変動相場制に移行して今日に至ったわけです。なお、現在は日本経済の衰退により円の価値は下がってきていますが、変動相場制に移行後ドル円レートの最高値は、平成23年(2011年)の75円でした。

対ドルレートの推移(単位:円)

対ドルレートの推移(単位:円)

さて、話しを明治38年に戻しますと、同年には日露戦争が終結し、日露講和条約が締結されました。そこでは、日本は遼東半島の租借権を得ることになり、また韓国における経済上の利益を得ることなどが決められました。また、ロシアから樺太の北緯50度以南の土地を得ましたが、日露講和条約(ポーツマス条約)では日本が要求した賠償金12億円については実現しませんでした。日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者(戦没者日清戦争約1.3万人、日露戦争約8.5万人)や膨大な戦費を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかったことに国民の不満は高まりました。同年9月には、講和条約に反対する国民集会が日比谷公園で開かれ、そのあと暴動となり、新聞社や警察署などが焼打ちされ、東京が無秩序状態となる日比谷焼き打ち事件が起きました。
当時の新聞には、次のように書かれています。「交番焼き討ちの挙はほとんど底止するところを知らず、日比谷より芝、京橋、日本橋に、十二時頃には既に神田に移り、その止まる所を知らず、・・・市内十三個所に火の手の挙がるのを見る。輦轂の下れんこく もと(皇居のある地)、この無政府の変態を見る。ああ誰の罪ぞ。」そしてついに、「朕、ここに緊急の必要ありと認め、枢密顧問の諮詢しじゅん(意見を問い求める)を経て帝国憲法第八条(天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス。)により、東京府内一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し、これを交付せしむ。」となりました。そして、「本日午後三時四十七分、平和条約を調印せり。今、十九発の祝砲轟く。」と日露講和条約の調印が終わりました。

司馬遼太郎は、小説「坂の上の雲」のあとがきにおいて、「日本人は国民的気分のなかで戦争へ傾斜した。戦争の運営者にとってやりやすかったのは、国民を戦争に駆りたてるための宣伝は、世論自体が戦争にむかって奔馬ほんばのようになっていたため、いっさいする必要がなかったことである。」と言い、しかし戦争に勝ったといえ、立ち上がりに相手を2、3発なぐり、相手が本格的な反動をする前にアメリカに仲介してもらい、戦争を止めたわけなので、また、ロシア革命などによる国内の混乱などもロシアに不利となり、さらにロシアに攻め込んだわけでもなく、日本の勝利のように見えても、スレスレの所でのきわどい戦いであったわけです。従って、「戦後の日本は、この相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ、勝利を絶対化し、日本軍の神秘的な強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。」とまで言い切ります。

日比谷焼き打ち事件「明治日本発掘8」 河出書房新社

日比谷焼き打ち事件「明治日本発掘8」 河出書房新社

伊藤は、長州藩士として吉田松陰の松下村塾において同郷の高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠らと学びましたが、さらに海外の情勢を知りたいと願い、文久3年長州藩が英国へ派遣した井上馨ら5人の若い藩士(長州ファイブ)の一人として、ロンドン大学に留学しました。伊藤は、この経験により日本と英国との国力があまりにも違うことがわかり、攘夷は不可能であることを知り、開国主義へと転じて欧米の近代文明を積極的に取り入れようとしました。
また、身分や藩といった狭い秩序にこだわらず、広い世界観を身に着け、内閣制度や憲法の制定などわが国近代化に力を注ぎました。このような伊藤の活躍とは逆に、松下村塾の他の門下生らは、壮絶な死を迎えています。松陰は、伝馬町牢屋敷にて29歳で打ち首、高杉は肺結核で27歳で死去、久坂は蛤御門の変で27歳で戦死、前原は萩の乱により42歳で斬首刑にと。
しかし、伊藤も統監退任後の明治42年ロシア蔵相と会談のため訪れたハルビン駅で韓国の民族運動家安重根あんじゅんこんによって射殺されました。高杉らと幕末の時代を過ごした伊藤から受ける印象は、幕末志士として活躍した渋沢と同じように、明治維新後、洋服を着た明治紳士としての印象が強く感じられます。なおさら、伊藤の印象は昭和61年まで発行された千円札の肖像が余りにも強く印象に残っているからでしょうか。

 

(参考資料)
「伊藤博文 知の政治家」 瀧井一博  中公新書 2010
「朝鮮銀行史」 朝鮮銀行史研究会編  東洋経済新報社  1987
「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「ニュースで追う明治日本発掘8」 河出書房新社  1995
「坂の上の雲 (八)」 司馬遼太郎 文春文庫 1999

 

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