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社会人のための会計と監査 -会計・監査はどのように役立つか- 第135回 会計・監査の道

大正2年、中華民国大総統袁世凱えんせいがいは中日実業の今後の経営について打合せるため、渋沢栄一を中国へ招聘しょうへいしました。そして、翌年5月に、栄一の中国訪問が実現することになりました。袁は、栄一を中国に招待する理由として、中日実業は中国政府の実業開発機関であり、また日中両国の親善の源泉としたく思い、その生みの親である栄一と面会して親しく意見の交換を行うためとしていました。

この訪問は、日本だけではなく中国においても、多くの注目を浴び、海外メディアは彼の訪中目的が利権獲得と中国における事業を開拓することなどと報道しました。

しかし、栄一はこれらの報道に対して、次のように否定しました。「今回の訪中にあたっては野心、欲望というものは何もない。第一の目的は遊覧して風景を楽しむことである。ただ、第二の目的としては中国で、中日実業会社に関係する人と協議を行う予定ことである。」と述べており、また「訪中はかねてからの願いであり、幼いころに中国の経書を読んだ時からあこがれてきて、私は孔子を尊敬しており、長い間この先人の墓に参りたいと思っていた。」とも言い、訪中はあくまでも日中親善のためであり、そこに利権獲得などという意思はないと述べています。

また、栄一は上海に着いた直後、日中とイギリスとの関係について次のように述べています。「一国が発展するためには経済上に三つの要素が必要である。すなわち、資源、資本、従事者の知識と経験である。中国は極めて豊かな資源を多く持つ。イギリスは資本を持つ。そして日本は中国に関する知識を持ち、それをイギリスに提供して、一致した行動を採らねばならない。」すなわち、中国を発展させるために、資源を持つ中国、資本を持つイギリス、知識と経験を持つ日本といった三者の協力が必要であると主張しました。また日本とイギリスとの利権衝突について、次のように述べています。「経済の道は利己であるとともに利他でなければならず、仁愛を体とし、断じて戦争により勝敗を争い、争いにより奪い合いをするものであってはならない。おのれも利益を得て、他者もまた利益を受けることができるようにしなければならない。」と。また、日本の政界も栄一の中国訪問に大きく関心を寄せていました。

大隈重信は彼の訪中について、「先頃渋沢の漫遊、功はないではないが、彼の特権の問題、あれは孫と始めて手を付け、今は袁と相談の事と云う。」と評しました。当時の大隈内閣は、日英同盟を重視し、英国の財力に頼みつつ日本の知恵を活用し、両国が協力して対中政策にあたる方針でしたので、栄一の言葉はまさに政府の方針と一致していることを表したものでした。

しかし、栄一が中国を訪問した年は、大変な時期でした。大正3年7月第一次世界大戦が勃発し、日本は中立を維持してきましたが、イギリスによる参戦依頼により、ドイツに宣戦布告を行いました。そして、翌年1月には、日本政府は、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承することや旅順・大連の租借期限と満鉄の権益期限を99年に延長することなどの対華二十一カ条要求を袁に突きつけました。このような日本の強引なやり方に対して、中国では反日感情が高まることになりました。このような時期でしたので、栄一の中国訪問は、中国側から見れば中国利権の獲得のためと写るのもやむを得ないことであったと想像できます。

そして、栄一もついに、中国から帰国後、「利権といえば中国国民を圧迫する如くに捉えられるが、経済的利権は経済の原理に基づくものであり、双方にとって利益を及ぼすものと考えることができる。」と述べています。

地洋丸(Wikipediaより)

地洋丸(Wikipediaより)

さて、この中国旅行は、大正3年5月2日に神戸港から13,000トンの貨客船地洋丸で上海に向けて出港するところから始まります。地洋丸は、日本で最初の1万トンを越える大型船でサンフランシスコ航路に就航する予定で、明治41年に浅野総一郎の経営する東洋汽船の発注により長崎の三菱造船所で竣工しました。当時としては、最大の豪華客船であったと思われます。なお、現在山下埠頭に係留されている氷川丸は、昭和5年に横浜船渠で竣工し、北米航路シアトル線に配船されましたが、総トン数は11,622トンで、ほぼ地洋丸と同じ大きさです。

氷川丸は、戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として平成28年に重要文化財に指定されました。船室を見ると、一等特別室や一等社交室などの豪華な客室は浮かぶホテルのようで、海外へは船で行くしかない時代の様子がそのまま保存されています。筆者はコロナ前に、コスタ・ネオロマンチカなどの客船でクルーズをしましたが、現在のクルーズ船は大型化し、総トン数が10万トンを超えるものもあり、かつて船旅は一部の人々の特権だったのが、現在は一般化していることに驚きました。

栄一は、地洋丸が午後11時に神戸港を出向すると、喫煙室で談話し、11時半に船室に入って就寝しました。そして、4日に中国本土に到着し、揚子江を上り上海に着岸して、6日に上陸しました。そして、上海から杭州、蘇州、南京、漢口、武漢、北京、天津、旅順を歴訪して、6月2日に大阪商船の嘉義丸(2,341トン)で大連を出航し門司に向かい、4日午前11時に無事門司港へ到着しました。なお、この嘉義丸は、その後昭和18年奄美大島近海で米軍の魚雷を受け沈没して、一般乗客300人以上が犠牲となっています。太平洋戦争が始まると外国定期航路は休止に追いこまれ、軍艦だけではなく商船の多くが撃沈されました。日本郵船だけでも185隻113万総トンにもなり、多くの犠牲者が出ました。横浜海岸通りには、黒船から現在の海運物流までの歴史を多角的に学ぶことができるすばらしい施設、日本郵船歴史博物館があります。

日常を忘れて 船旅へ

日常を忘れて 船旅へ

栄一の中国旅行は約1ヵ月におよび、行く先々で歓待や饗応、そして講演まであり75歳の老人には体力的にかなりきつかったようで、旅先で何度か発熱や腹痛などを起こしましたが、無事スケジュールを消化して帰国することができました。
今回の旅行の最大のハイライトは北京における袁世凱大総統との会談でした。

北京到着3日目の5月21日午後4時、大総統謁見のため、栄一一行7人は、北京中南海の大統領の執務と居住の場所である居仁堂きょじんどうを訪問しました。袁は、栄一に、「弊国には度々来遊されているのか。せっかくの巡遊に接待も出来ず礼を失する。市中を見物せられたか。」などの質問をし、また栄一は、「今回の旅行は漫遊に止まるのにご優待を受け感謝している、自分は少年の時より孔孟の教えを学んだので、貴国の文物を長く慕っており、そのため孔子廟を参拝しようとしている。」などと返答しました。そして、袁より、「中日の関係は其の淵源えんげんする所はすこぶる遠く一朝一夕の事ではないが、両国の親善なる交誼を強固にしようとするならば、その経済上の関係を密接にしなければならず、これが予が中日実業会社の事業に賛同した理由である。何卒充分のご尽力をお願いする。」との言葉がありました。

その後、中日実業会社の代表やん氏と面談し、栄一は、「日本は欧米諸国に比すれば貧乏であるが、財を集めてこれを活用する道を知り、かつこれを応用する組織はある、支那において欠けているのはこの点であり、合本結社(合本主義「第123回・126回会計・監査の道」参照)が必要である。」と力説しました。その日は、外務部の盛大な晩餐会にも招待されました。

その後、栄一が進めた中国との合弁事業は、中国国内の内紛や日中戦争などにより、破綻することになります(前回参照)。そして、戦後中国との国交は昭和47年(1972年)の田中角栄による日中国交正常化まで断絶し、対中投資は、昭和54年(1979年)の鄧小平による改革開放政策への経済政策の転換により、再開することになります。

日中国交正常化の共同声明に署名する田中角栄(1972年 外務省HPより)

日中国交正常化の共同声明に署名する田中角栄(1972年 外務省HPより)

鄧小平は、昭和53年(1978年)の中日平和友好条約の調印をきっかけとして、中国の指導者としては戦後初となる日本を訪れ、経済成長の奇跡を造った世界第2の経済大国である日本に学ぶことにしました。彼は、新日鉄や日産、そして松下電器(現、パナソニック)の大阪茨木工場を訪問しました。当時83歳だった松下幸之助は小雨の中、傘もささずに鄧小平氏を出迎えました。彼は幸之助に、「中国の近代化建設にお手伝を頂きたい。」と伝え、幸之助は「全力で支援いたします。」と約束しました。
筆者は、当時この様子をテレビで見て、また、鄧小平の次の言葉に大変ショックを受けました。「中国がこれからの経済発展がうまく行くかどうかは、先生である日本のやり方にかかっている。」また、彼は新幹線に乗り、その速さに驚き「われわれも走らなくてはならない。」と語っていました。

それから半世紀近く経ち、中国のGDPは2000兆円に迫り、日本の4倍近く、2030年までには米国を抜くと言われています。松下の主力製品であった洗濯機やテレビ、冷蔵庫の白物家電はハイアールに取って代わり、レノボはIBMのPC・サーバ部門を買収し、中国の新幹線網は3万8000キロを超え日本の新幹線の10倍以上となりました。また、当時無かった電気自動車(EV)は、今や販売台数(2021年)は、バッテリー電気自動車(BEV)とプラグインハイブリッド車(PHEV)を合わせて前年比2.2倍の660万台に達し、そのうち、中国が333万台、欧州が228万台、米国が63万台となり、日本はわずか2万台でした。世界の自動車メーカーのEVの販売台数ランキングトップ20社(2022年1月~3月)を見ると、中国12社、ドイツ4社、韓国2社、米国1社、フランス1社が入っており、日本車は入っていません。
中国の太陽光パネル製造の世界シェアは8割、EVのバッテリー生産では75%に達します。先日、日経紙面に、日本の一歩先を進み、世界最速のスピードでデジタル化社会に突入している中国を訪れ、中国テック企業やスタートアップ専門家と交流する視察ツアーの案内が載っていました。

数年前に、中国で大ヒットしたテレビドラマ「我的前半生(The first half of my life)」は上海で働く30~40才のビジネスマンたちが仕事、家庭、家族のことなど、モダンジャズをバックとして、悩みを抱えて生きる姿が映し出されています。
高層ビルのオフィスと出世競争、ドイツ車での通勤、家族関係、子供の教育など現代の中国の世相を表しており、その生活様式は日本のトップクラスのビジネスマンと変わりがありませんでした。しかし、彼らも当然悩みも多く、仕事の気晴らしは仕事帰りに上海にある日本の居酒屋で日本酒を交わしながら、肴をつまむことでした。
店主のこんな言葉に驚くばかりでした。「今日は、生きのいい北海道のウニが入ったよ。」

 

(参考資料)

「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「渋沢栄一と中国 1914年の中国訪問」 田彤 編 于臣 訳 不二出版 2016
「渋沢栄一の中国訪問をめぐる議論 ——中国の新聞記事の分析を中心に——」 左曼麗 比較日本文化学研究第13号  2020

筆者紹介

筆者紹介
元東洋大学 経営学部教授
税理士法人創新會計 社員   税理士・公認会計士 中村義人
朝日監査法人(現あずさ監査法人)に入社後、製造業、建設業、金融機関の会計監査および経営コンサルティングに従事。この間カンボジア などの発展途上国で会計などの指導にもあたる。 1999年に環境マネジメント部長に就任。環境会 計導入支援、CSR報告書審査等を行う。2004年、あずさサスティナビリティ株式会社代表取締役に就任。2006年~2020年、東洋大学経営学部教授として教壇に立つ。著書に『環境経営戦略のノウハウ』『建設業会計業務ハンドブック』『簿記会計ハンドブック』など。

 

 

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