中村義人の一言ゼミナール

社会人のための会計と監査 -会計・監査はどのように役立つか- 第134回 会計・監査の道

孫文らと共同で設立した中国興業株式会社は、中国側の事情により孫文の了承を得て中華民国大総統袁世凱えんせいがいの北京政府と提携することとなり、袁は財政部に命じて政府国庫金を支出して中国側の持株を引き受けました。そして、双方での経営の変更計画の協定もでき、大正3年4月第1回定時株主総会において、会社を中国における資源開発を目的とする実施機関として位置づけ、会社名を中日実業株式会社と改め、また取締役、持ち株などの変更も行いました。
日本側の出資者は、台湾銀行、三菱合資会社、三井合名会社、大阪商船会社、日本興業銀行、大倉組などでした。渋沢栄一は、引き続き会社の相談役となりました。会社の資本は日本と中国の半々で出資し、資本金を5百万円としました。総裁には、中国人の楊士琦やんしちがなり、副総裁として日本側の倉知鉄吉(元外務次官、貴族院議員)が就任しました。栄一は、倉知と中日実業の事業を巡って飛鳥山の私邸で、しばしば会議をしたことが、記録に残されています。
その後、副総裁は倉知から三井物産出身の高木陸郎たかぎりくろうに変わりました。高木は、当時の中国経済との関係が深く、中国語が堪能で中国実業家とのコネクションを持っていました。中日実業は、日中両国の期待のもとに事業を開始しましたが、中華民国建国後、軍閥勢力と革命勢力との混戦の時代に入り、政情や経済が不安定なため、事業は順調には進みませんでした。また、会社設立の責任者でもあった袁は、大正5年3月に急死してしまいました。
高木は、副総裁になる少し前に、銀行倶楽部において渋沢はじめ役員が居並ぶ前で副総裁を引き受けるよう依頼を受け、彼は当時の様子を「中日会社副総裁と申す重き任務の椅子に就いたのは、会社が極端に衰微に傾いた非常の場合であり、忘れもせぬ大正11年11月24日であった。」と、述べています。なお、高木は、戦後昭和26年に土木工事の機械化を普及する目的で設立された日本国土開発株式会社(現在、東証プライム市場)の社長に就任しています。

高木陸郎

高木が「会社が極端に衰微に傾いた非常の場合」と述べたように、中日実業はすでに事業整理を積極的に推し進めていたようです。大正13年4月から大正14年3月までの第12回営業報告書の内容によると、「前期に引き続き専ら事業整理の促進に努め、極力債権の回収を計るとともに、債務負担の軽減に努力しており、まだ整理の完結には至っていないが、大正13年の支那における動乱の際でも、債権の回収はある程度の成績をあげることができた。」と書かれています。
なお、この支那における動乱とは、大正13年東北地方の張作霖ちょうさくりん軍閥と袁世凱の死後その北洋軍閥が分離して河北省にできた直隷チョクレイ軍閥との江蘇省、浙江省における内戦をいい、最後は張作霖が勝利しました(第二次奉直戦争・浙江戦争)。
日本政府は、満州における権益に憂慮しながらも、この内戦について内政不干渉の立場を取りました。張作霖は、その後大正15年、北京に入城し大元帥への就任を宣言し、中華民国の主権者となること発表しました。日本政府も、彼を支持していました。

大連市望海街(旧日本人街)の歴史建築となった張作霖旧居

なお、中日実業の債権とは、大正7年会社が中国政府交通部と交わした電話事業借款(担保は交通部所管各電話局財産および営業権など)のことで、債権回収の目途がたたず、1千万円の借款の新規書換も大正13年の浙江戦争のために実行されていないので、次期に解決しなければならない問題となっていました。また利払いに対する月賦金は毎月約3万元でしたが、これは山東省実業借款契約の毎月6万円の月賦金と共に順調に入金していました。当時の中国政府は国内のインフラ整備のため、アメリカとの棉麦借款、イギリスとの建設借款、ドイツとの製鉄借款など多くの借款を抱えており、財政的にかなり逼迫した状態でした。
戦前の日本の対中投資は、日本主導下で合弁会社が設立され、特に電気通信事業借款供与の主な目的は、帝国勢力拡大のための日本独自のアジア国際電気通信網建設と電気通信器材の独占的輸出市場として事業を掌握することでありました。大正15年3月の中日実業の根本的整理案によると、総負債の内から資本金および積立金を控除した純対外負債は、573万円、ここから延滞利子の一部免除と差入担保の処分で減額すべき額135万円を差し引き、438万円の対外負債が残るものとされていました。
そして、この債務について債権者に負担してもらう計画が書か れています。さらに、昭和2年3月末の第14回営業報告書においては、「前年度より引き続き債務の整理のため、社内経費の大削減を断行したが、中華民国の兵乱は更に拡大され、財政は一層窮迫することになり、最近おいてはほとんど回収不可能陥った。」と書かれています。さらに、昭和4年3月末の第16回営業報告書では、「債権の回収に益々困難を感じ、ほとんど回収は不可能となり、営業成績に見るべきものはない。」となりました。
ついに昭和6年7月、栄一は、幣原喜重郎しではらきじゅうろう外務大臣(昭和20年~21年内閣総理大臣)に対して、会社の窮状を訴える手紙を書き、援助を要請しました。しかし、具体的な動きはなく、その後の会社の状況は不明となっており、日本の敗戦を迎えることになります。そのときは、中日実業だけではなく、中国に設立、投資したすべての会社が消滅することになりました。
そして、日本をはじめ各国の対中投資は、1979年(昭和54年)の鄧小平による改革開放政策への経済政策の転換まで、待たねばなりませんでした。

さて、話しを戻しますと、大正2年、袁は中日実業の今後の経営について、栄一と打合せるため、また論語の実践者として孔子廟の参詣を栄一は多年の宿願としていたので、栄一を中国へ招聘することにしました。栄一も、良い機会でありこれに応えることにしました。この時、栄一は73歳の高齢であり、息子の渋沢正雄、秘書役、医師を伴い、同年11月に新橋を発って大連、北京、上海など回る1ヵ月の旅行計画を立てました。
ところが、北京は冬に入り、また栄一は喘息で病床に臥し、中国訪問を断念せざるを得ないことになりました。しかし、翌年5月には、中国訪問が叶うことになります。栄一は、これまで2回中国を訪問していますが、2回とも上海での短期旅行であり、1回目は慶応3年一橋家の家臣としての27歳で、徳川昭武に随行してパリ万博に参加したときに寄ったときであり(「社会人のための会計・監査論」第123回参照)、2回目は明治10年37歳のとき上海での清国からの借款交渉時でした。

 

(参考資料)
「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「日本の対中国電気通信事業投資について」  疋田康行   立教經濟學研究  1988

 

 

 

 

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