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社会人のための会計と監査 -会計・監査はどのように役立つか- 第133回 会計・監査の道

渋沢栄一が力を入れて作った東亜興業の鉄道事業は、結果的にうまく行きませんでしたが、栄一はこの会社とは別に、中国で新たな会社設立の計画を検討していました。明治45年(1912年)、中国で辛亥革命が起こり、孫文を臨時大総統とする中華民国が樹立されました。ここに、清国最後の皇帝溥儀が退位し、270年以上続いた清国は滅亡することになりました。日本では、260年以上続いた江戸幕府が滅亡することになりました。そして、欧米に習い憲法や国会を作り、これまでの王政とは違う制度に代えていきました。我々は、これを革命とは呼ばず「御一新」と呼びそして「維新」としたわけです。中国では、日本の維新開始の約40年後に王政から共和制へと大きく国家体制が変化しましたが、これは初めての制度であり、「革命」と呼ばれました。しかし、中国の長い歴史、広大な国土、膨大な人口、他民族などの性格から、日本のように順調な国家体制の確立は難しく困難であり、その確立は戦後(第2次世界大戦)まで待たなければなりませんでした。

孫文は、現在の広東省中山市に生まれ、生涯にわたって革命運動に従事します。革命が成功するまで何回も武装蜂起しますが、いつも失敗に終わり、そのため援助を受けるため日本を何回も訪問しています。例えば、貿易や映画事業から財をなした長崎出身の梅屋庄吉(明治元年~昭和9年)や犬養毅(内閣総理大臣第29代や外務大臣などを歴任)などがいました。梅屋は大正元年の日本活動冩眞株式會社(現在の日活株式会社)創設に加わっていました。日比谷公園の中に、西洋レストラン「日比谷松本楼」がありますが、ここに孫文と梅屋が良く食事に来たとされています。その訳は、現在の松本楼の社長小坂文乃氏が梅屋の曾孫ひまごにあたるためです。梅屋の娘千世子ちせこの子主和子すわこが、松本楼を代々営む小坂家に嫁いだことによります。明治36年開園した日比谷公園の開園にあたり、東京市はレストランの経営者を公募し、そこに銀座で料理店を経営していた小坂梅吉が応募して、松本楼が開店しました。開園時は多くの客が押し寄せ、大盛況でしたが、歴史の波にさらされ大変な災難を経験します。明治38年の日比谷焼き打ち事件(第131回会計・監査の道参照)では、集会の集合場所でしたが被害は免れました。しかしその後、大正12年の関東大震災で全焼してしまいました。そして昭和の東京大空襲では、奇跡的に焼失はしませんでしたが、昭和20年9月には米軍将校の宿舎として接収され営業は停止されました。そして、昭和46年11月沖縄返還強行採決に端を発して過激派のデモが日比谷公園で行われ、その時松本楼に火が放たれ、デモ隊のため消火活動ができず、建物は全焼してしまいました。この事件は、覚えている方は多いと思います。そして、昭和48年再建され、現在は緑の中のレストランとして続いています。筆者は、勤務していた監査法人が当時丸の内にあったため、時々公園内を歩いて松本楼で昼食を取ったことが、懐かしく思い出されます。

孫文と梅屋夫妻 「革命をプロデュースした日本人 評伝梅屋庄吉」より

 

孫文と梅屋夫妻
「革命をプロデュースした日本人 評伝梅屋庄吉」より

 

さて、話しを戻しますと、革命には資金がいる、そのため、梅屋が孫文に巨額の資金援助をしました。梅屋が孫文にこう言ったとされています。「君は兵をあげたまえ、私は財を挙げて支援する。」梅屋が亡くなったときには、その莫大な資産はすべて使い果たしたとされています。梅屋が好きであった言葉があります。「富貴在心」。その意味は、「富や貴さは財産や名声ではなく、その人の心の中にある。人は財産の多少によってその価値が決まるのではなく、人の価値は魂にある。」ということです。「なぜは名声や地位の見返りを求めず、これほどまでに革命に資金を提供したのか。」の問いに、小坂氏は、こう答えます。「革命の主役が孫文であれば、梅屋はそのプロデューサーであった。」すなわち、梅屋も一緒に革命をしたということでしょうか。梅屋は、昭和9年65才で亡くなりました。日中関係は益々悪化していた状況で、彼はその遺言の中に、孫文との関係は一切口外してはならないとあったため、これらの事実は長い間秘密になっていました。そして、戦後昭和47年、日中国交が回復されると、梅屋の娘千世子ちせこがこのもうこの歴史的事実を伝えた方がよいのではないかと考え、マスコミなどに紹介しましたが、話題にはなりませんでした。しかし、平成20年に胡錦涛こきんとう国家主席が来日した際、松本楼を訪れたことがきっかけとなり多くの人々に知られるところとなりました。長崎県では、梅屋を顕彰し広く世に紹介するため、「孫文・梅屋庄吉と長崎」プロジェクトを推進しており、また児童書「長崎の偉人梅屋庄吉」(平成26年)も発行しました。

辛亥革命の翌年大正2年2月、孫文は日本を訪れました。栄一は、この時新橋駅に降り立った孫文と初めて会いました。そして、孫文が帰国するまでの約3週間、栄一は各種の孫文歓迎会に出席したり、孫文と日中経済提携や日中合弁会社設立などについての協議を行うなどの交流を繰り広げました。孫文は、「革命後の支那は実業を持って立たねばならない。それで、えんには政治をやらせ、自分は実業をやる。」と賛成しました。孫文が帰国する時も栄一は新橋駅に見送りに行きました。このあと孫文の革命勢力が弱体であったため、政敵であった北洋軍閥の袁世凱を臨時大総統とし、孫文は辞任することになりました。

その後、同年8月、孫文らとの提携のもとで東京商業会議所において中国興業株式会社を創立しました。取締役には、倉知鉄吉(貴族院議員、実業家)、尾崎敬義(三井銀行)、森恪(三井物産上海駐在)、印錫璋、王一亭、張人傑の6名がなり、監査役2名、大橋新太郎(出版業、博文館創業)と沈縵雲が決まりました。栄一は相談役になりました。本社を東京に支社を上海に置きました。

晩年栄一は、孫文との対話で次のように語っています。

「孫中山先生が大正元年に革命を遂げて日本を訪ねられた時、お目にかかり、いろいろお話を致しましたが、特にこう申しました。日本と貴国とは国情は相違するけれども、道徳の根本は共に孔子の教を遵奉している。また文字も同様であり、従つて人情も非常に似ております。そして共に東洋に隣して国を為して居るのでありますから、これから先世界から侮られず、お互に尊敬される国にならなければならぬ。それにはどうしても中華民国と日本とが経済的に道徳的に結びつかねば完全たり得ないでありましょう。貴国は二つになり三つになり、時には八つにも分れて相争ふ弊が多い、もちろん歴史上貴国のみがそうであると申す訳ではないが、国内において相争ってはよいことはない。故に貴国は昔からの孔孟の教へを以て、政治のみでなく経済も進め、道理によつて国の安寧と富強とを図らねばなりません。」まさに中国発の論語の意味をお返したようなことです。なお、現在中国においても栄一の経営理念は有名であり、「論語と算盤」は中国語でも販売されており(论语和算盘)、経営者の必読書になっています。

中国語版「論語と算盤」

中国語版「論語と算盤」

さらに「孫先生は次の革命には失敗せられ、亡命的に日本へ来られた時、私を訪ね、革命のために必要だから金の心配をしてくれと申されましたが、政治のことは私の領分でなく、その方面に力がないからお断りしました。そして事業経済上の事柄なら心配し得られるが、戦争に使ふ金はどうもならぬ。と前の時の話をしたやうな次第でした。」と話しています(竜門雑誌第489号昭和4年6月竜門社、陳煥章氏来訪にて)。栄一の言った次の革命とは、孫文の失脚を意味しています。すなわち、孫文の革命勢力が弱体であったため、彼が臨時大総統を辞任し、政敵であった北洋軍閥の袁世凱えんせいがいを就任させざるを得ませんでした。そして、権力を握った袁世凱は、正式な大総統になり独裁色を強めた国家体制を作り、自ら皇帝となることまで望み王政の復活までも考えました。この間、孫文は自ら作った中華民国を追われ、日本に亡命せざるを得ないことになりました。この時の情勢を栄一が述べたものです。その後、袁世凱は、1916年(大正5年)3月急死してしまいます。そして、この後中華民国は、欧州、米国、日本の干渉のもと、軍閥勢力と孫文らの革命勢力との混戦の時代に突入することになります。
(参考資料)
「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「革命家 孫文」 藤村久雄  中公新書  1994
「革命をプロデュースした日本人 評伝梅屋庄吉」小坂文乃 講談社 2009
「日比谷松本楼の100年 日比谷公園と共に」 西島雄造  日比谷松本楼   2003

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