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社会人のための会計と監査 -会計・監査はどのように役立つか- 第132回 会計・監査の道

渋沢栄一は、国民外交の必要性から経済人として、率先して各国と民間経済外交に係わるべきとして、これまで述べた韓国の他、中国へも関心を寄せました。明治28年、日清戦争が終息し講和条約(下関条約)が結ばれると、日本は中国の鉄道・土木・鉱山などへの開発機運が高まりました。

しかし、明治35年日英同盟が結ばれ、そして日露戦争の勃発など中国の権益をめぐる列強の動きは流動的となり、また、長江流域における英国の経済権益などもあり、日本の中国における経済進出は進みませんでした。
英国は1840年(天保11年)のアヘン戦争により南京条約を締結し香港の割譲などで中国への進出を加速しましたが、この時代になると領土的進出から経済的進出へと変わり、とくに金融資本の進出をはかり、そのために中国の経済や産業の発展・安定化を志向するようになりました。
従って、日本のこのような情勢を背景として、栄一は中国における事業の必要性を感じ、具体的な行動に移すことになります。まず、明治42年栄一は大倉喜八郎(大倉財閥)、益田孝(三井財閥)、近藤廉平(日本郵船)、岩崎小弥太(三菱財閥)など有力な実業家と一緒に日清企業調査会を組織して、中国経済事情の調査に当たり事業化を検討します。
当時の栄一の日記によると、「明治四二年十二時、帝国ホテルニいたリ、日清起業調査会ニ出席シ、近藤、大倉・・・諸氏ト共ニ、小田切氏ヨリ北京滞在中伊集院公使トノ協議顛末ヲ聞ク、英独人ノ清国鉄道事業ニ関スル経営ヲ詳説セラル、更ニ清国政務ノ近状ヲ話ス・・」とあります。
当初この調査会は、英国におけるシンジケートの組織体(製品の共同販売など特定の事業に関する協定を結んで組織した企業連合体をいう。)とすることを考えましたが、日本ではまだシンジケート組織が認められず、また出資者側が無限責任の組織となるにはためらいもあり、結局、株式会社組織とすることになりました。

当時、栄一は日本の対中国外交について統一した方針がなく、「霞ケ関(外務省)と三宅坂(陸軍)それにもう一つ(大陸浪人)の三種類の外交があって、それが中国大陸で各自の利害と思惑によりなんらの統一性もなく、好き勝手な行動を取っているため中国に疑惑と誤解を与えている。」と批判しています。
そして、この三種の外交のうち、特に軍部の中国政策は、威圧をもって旧来型の帝国主義政策を推し進めているため、アメリカやイギリスなどからも疑惑の念をもたれるようになり、このことを強く危惧し、国際社会における日本の地位が大きく揺らぐのを感じていました。

三宅坂の陸軍参謀本部を望む Wikipediaより

三宅坂の陸軍参謀本部を望む Wikipediaより

このような情勢の中、日清企 業調査会は、明治42年に東亜興業株式会社(資本金百万円、本店東京市)となり、三井財閥や三菱・大倉財閥などにより出資されました。出資者は、次の通りです。三井家1000株、岩崎小弥太500株、大倉喜八郎500株、古河虎之助400株、大谷光瑞300株、安田善之助300株、渋沢栄一300株など。この会社は、清国における鉄道・土木・鉱山・造船・電気等の各種事業の調査設計及び引受など、直接・間接にこれら事業に投資又は資本の供給をすることを目的としていました。
会社の創立総会では、栄一は議長となり議事進行し、役員を選出しました。また、会社設立にあたっては、栄一は当時の総理大臣桂太郎と外務大臣小村寿太郎を訪れ相談しています。このことから、東亜興業は政財界一体となった政策的な会社であったことが推測されます。
取締役社長には、当時の土木界の最高権威である古市公威ふるいちこういがなりました。古市は、フランスに留学して帝国大学工科大学長・土木学会長などを歴任して、日本の近代工学・土木工学の制度を創った人です。大正9年に設立された日本最初の地下鉄会社である東京地下鉄道株式会社の初代社長にもなっています。日本初の地下鉄は昭和2年になってこの会社において、浅草上野間で営業が開始されました。

東亜興業の事業は、計画通りまず鉄道の敷設から始まりました。この鉄道は江西南潯こうせいなんじん鉄道といい、中国最長の川、長江の中腹に位置し、沿岸の重要港湾都市である九江市を起点として江西省(長江南岸に位置する内陸部の省)の全部に延び、南は広東、西は湖南、東は福建・浙江せっこうへ連るものでした。
長江は下流部は揚子江と呼ばれ、古くから華中の中心的な交通路として利用されてきました。その流域には成都、武漢、重慶などの工業都市、さらに南京、上海などの商業都市があり、栄一がこの長江の中腹の鉄道の重要性に目を付けたのは当然のことでした。この鉄道の建設資金を東亜興業が提供しました。
中国における鉄道事業は日本だけではなく、英国、フランス、米国などが競って投資して、発展していきました。昭和の初期には、国有鉄道は1万キロに達しましたが、その内9割までが外債によって建設され、その債務負担によりは厳しい財政状況におかれ、鉄道収益の半分を債務などの支払いに充てなければなりませんでした。

現在の中国では、高速鉄道(日本の新幹線にあたり、中国では一般に「高铁gāo tiě」と呼ばれている。)が網の目のように引かれていますが、筆者は、10数年前に杭州から上海まで高速鉄道に乗りました。電車はまだできたばかりでとてもきれいでしたが、運行のソフト面ではまだ不便で、大変驚いた経験があります。駅にはまだセキュリテイチェックも自動改札もなく、指定席特急券はあらかじめガイドに買ってきてもらいましたが、杭州駅に行くと構内に沢山の乗客がいて、列車の到着5分前にしか改札が開かないため、列車が到着すると改札口に人が殺到し、乗り遅れまいと大混乱になり、改札を飛び越える人もおり、ホームも工事の段差ばかりで、重い旅行鞄を引きながら駆け足で、やっと列車の近くの乗車口に飛び乗ることができました。列車内は大変混んでいて、自分の指定席にたどり着くとやはり、他人が座っています。指定席券を見せてどいてもらい、やっと座れました。
テレビによると切符は関係なく指定席でも早く席を取った人が譲らない様子が報道されていましたが、そんなことはなく安心しました。今では、こんな状況ではないと思います。

高速鉄道社内

高速鉄道社内

また帰りは、上海市内の龍陽路駅から上海浦東国際空港まで、初めてリニアモーターカー(SMT:Shanghai Maglev Transport 上海磁浮列车)に乗りました。路線区間が短いため10分もかからず到着しましたが、車内はとても静かで快適でした。

上海のリニアモーターカー(上海磁浮列车)

上海のリニアモーターカー(上海磁浮列车)

さて、この東亜興業の経営成績は、増資などにより拡大していきましたが、投資していた江西南潯こうせいなんじん鉄道が資金不足に陥り、計画していた区間の工事が中断してしまいました。また、清朝滅亡後の中国は未だ統一した国家ができていなく、政治・経済が不安定であったことも鉄道建設がうまくいかなかった原因でした。
明治44年に孫文らによる辛亥革命が起き、また軍閥(軍事力を背景として政治的支配力や特権を掌握した軍部勢力)が多く結成され、軍閥内戦状態にもなり、大正12年には東亜興業の投資額は5千860万円に達し、回収の目途も立たず資産状況は悪化し、無配となり、興銀をはじめとする銀行団との折衝を経て、遂に昭和3年に会社整理をすることになってしまいました。

 

(参考資料)
「デジタル版 渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「民間交流のパイオニア  渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店 2013
「青淵論叢」 渋沢栄一述  統計資料協会  1933
「現代支那論」   尾崎秀実  岩波新書  1939

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