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社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第130回 会計・監査の道

(↑ 上記写真は、10年以上前のソウルの骨董通りです。 撮影:中村義人)

渋沢栄一は、多くの会社の創設に係わるほか、福祉施設、学校などの社会事業にも多大な貢献をしました。

さらに民間外交として、米国、中国、韓国に何度も出向き各国との相互理解を深めました。栄一は、真の親交を期するには、国民と国民との隔意ない握手によって初めて成り立つものであり、いかに政府と政府が美麗なる外交辞令によって相結ぼうとしても、双方の国民が互いに理解し合わなければ、とうてい国交の円満を期することは出来ない、と考えていました。
この信念のもとに、栄一は、長年各国との親善について力を注いできました。

栄一の初めての海外での活動は韓国でした。
日本は、室町時代から朝鮮通信を通じて日朝の文化交流を図ってきたので、明治維新後、直ぐに朝鮮王朝に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行いましたが、日本の外交文書が度々朝鮮王朝に無視されていました。
このような朝鮮王朝の対応をきっかけとして、また当時の不平士族の不満を解消する手段として、海外に目を向けさせるために征韓論が起きました。しかし、明治6年征韓論を唱えた西郷、江藤、板垣らは、岩倉具視らの国際関係の重視と国力不十分とした慎重論に敗れ、下野することになり、征韓論は衰えました(明治6年の政変)。

その後、日本は、明治9年に韓国と日朝修好条規を結ぶことになります。
韓国は、当時、李朝であり14世紀から長く李氏による支配下の朝鮮王朝でした。当時、朝鮮王朝は日本と同じく攘夷政策を敷いており、アメリカ、フランス、ロシアなどは軍艦を派遣し、朝鮮王朝に開国を迫っていました。
また、日本も朝鮮王朝に開国を迫り、軍艦を派遣し圧力をかけました。明治8年には、日朝双方で軍事衝突が起こりました。それは、江華島(ソウル近くの島)周辺で停泊中の日本軍艦を朝鮮側の砲台から攻撃がされたことです。(江華島事件)そのため、朝鮮王朝は、翌年日朝修好条規を締結して日本側に謝罪することになりました。
当時、日朝両政府はこの事件を偶発的なものとして認識し、戦線の拡大は避けて、一連の条約交渉が進められたわけです。幕末にペリー艦隊の軍艦を派遣し、開国を要求したアメリカと同じようなことを、明治政府は朝鮮王朝にしたわけです。日本は、アメリカ側の圧力によって不利な日米修好通商条約が結ばざるを得ないことになりました。それと同じように日本も江華島事件をきっかけとして朝鮮王朝に日朝修好条規を結ばせたわけです。
そして、朝鮮王朝は日朝の通商条約が結ばれると、開国政策へと転換し、米欧などと通商条約を結ぶことになります。日朝修好条規には、朝鮮と日本は平等の権利を有する国家と認める、釜山以外に2港を開港する、通商は各々の人民に任せ自由貿易を行う、双方輸出入に関税をかけず朝鮮に関税自主権を認めない、開港地における日本人は現地の裁判権は及ばず円を流通させる、など実質的には朝鮮に不利な内容でした。明治政府は、日米修好通商条約が日本の関税自主権を認めず、長く不利な扱いを受けたことから学んだ結果と思えます。

そして、この日朝修好条規の締結をきっかけとして、明治政府は日朝貿易を推し進めようとしましたが、未知の市場と貿易をしようとする民間会社は現れず、このままでは日朝修好条規は有名無実化してしまうという危機感を抱きました。そこで大久保利通は、大倉喜八郎に日朝貿易を進めるように要請します。喜八郎は、この事業の成否が分からぬまま承諾し、日本の織物や雑貨などを船に積んで朝鮮に出かけ商売を始め、商売は盛んになりましたが、まだ近代的金融機関のない朝鮮で商取引の不便を感じ、栄一に銀行設立の相談を持ちかけることになりました。(大倉喜八郎と栄一との関係は第127回会計・監査の道参照)
そこで、栄一は、釜山に第一銀行を設置しようとして行内の意思を図りましたが、三井組や小野組の大株主から日本における第一銀行(現在のみずほ銀行)も出来たばかりであり、とても朝鮮の銀行設立は時期尚早であると却下されてしまいました。そこでやむなく喜八郎と栄一は共同出資して釜山に私設銀行を開設しました(明治9年)。その後、大蔵省に国立銀行としての申請をしましたが、銀行としての認可は得られませんでした。
やがて、日朝貿易が盛んになり第一銀行が釜山支店を開設する運びになり明治11年)、喜八郎らの私設銀行の業務を引き継ぐことになりました。
さらに、栄一らは第一銀行券発行による産業の進展を目論み、日韓双方に働きかけ、明治35年に第一銀行券発行の運びとなりました。第一銀行の朝鮮における業務は、中央銀行としての役割として国の紙幣の管理、国金の取扱い、銀行券の発行業務などであり、また市中銀行の業務、すなわち預金業務、為替業務、貸付業務、手形割引、有価証券の売買なども行なわれていました。

なお、栄一は、朝鮮に第一銀行の支店を設置したことについて、自叙伝で次のように語っています。「朝鮮に第一銀行の支店を設置したのも、日韓通商上の発達を助長しようという目的に外ならなかった。第一銀行としては、利益という点からばかり見れば、これは確かに不得策であったには違いないが、私は目的が前に述べるように(前に、銀行事態の利益よりも寧ろ日本全体の経済のことを先に考える、と述べている。)他にあったので、銀行内部では反対の意見が有る者もあったが、多少の犠牲は覚悟の上で自分の意見を実行したのである。」

なお、わが国では銀行制度ができる前は、貨幣の単位はこれまでの金(両)・銀(貫・匁)・銭(文)の3貨制度でしたが、これを改めるために明治4年に「新貨条例」を布告して、圓(円)・銭・厘の単位を用いる通貨制度に変更し、1円=100銭、1銭=10厘とする10進法を採用しました。さらに、近代的な銀行制度を導入するため、欧米各国の通貨に関する法律・規則を研究し、1864年(元治元年)に制定されたアメリカ の国法銀行法によるナショナル・バンク制度を見倣って、明治5年に太政官布告として「国立銀行条例」を制定しました。この国立銀行は銀行券の発行を認められた株式会社組織の銀行でした。
なお、「国立銀行」という名称を使っていますが、その理由はアメリカのナショナル・バンクの訳語として使われたもので「国の法律に従って設立された」という意味です。この銀行条例により明治6年に第一号として設立されたのが、第一国立銀行(資本金244万円)です。当初の資本金は300万円として、三井組が100万円、小野組が100万円の引き受けは決まりましたが、残りは公募としましたが、当時の世間は銀行への理解がなく100万円は集まりませんでした。銀行の設置場所は、現在の日本橋兜町にあるみずほ銀行兜町支店の場所で、ビルの外壁に「銀行発祥の地の碑」が埋め込まれています。栄一の勧めにより第一銀行創立願書を大蔵省に提出したのは、三井組と小野組の代表であり、創立総会に当たり出資し、頭取や取締役になったのはこれらの者でありました。例えば、取締役頭取三井八郎右衛門(三井組)、同小野善助(小野組)などでした。しかし、これらの者は銀行業務には精通しておらず、そこで「総監役」を設け、この役を実質的な頭取の役目として栄一(株主)にその任務をさせたのでした。その後、江戸時代からの豪商であった小野組が破綻して手を引き、明治8年の総会で栄一は正式の頭取(大正5年まで)に就任しました。

第一銀行本店 (第一銀行50年小史より)

第一銀行本店 (第一銀行50年小史より)

平成31年4月、財務省は新しい日本銀行券一万円、五千円及び千円を令和6年に発行すると発表しました。そして、新一万円券には栄一の肖像が載ることになりました。約20年ぶりの新札発行と初めての経済界からの肖像として大変話題になりました。日本銀行によると、紙幣に肖像を載せる理由は、第一に偽造防止のためであり、人間は人の顔を見分けることに慣れており、お札の肖像がほんの少しでも違っていると違和感を持ち、偽造ではないかと疑うからと説明します。それから、有名人などを描くことによってお札に親近感を持ってもらうこともあります。日本銀行券は国立印刷局において制作されていますが、国立印刷局は明治4年に大蔵省紙幣司(しへいし)として設置され、昨年創立150周年を迎えました。初代の紙幣頭(しへいのかみ)(後の印刷局長)は栄一がなりました。その意味でも、栄一が紙幣の肖像に載ることには前から因縁があったものと言えるでしょう。そして、昨年から新紙幣の印刷が始まりました。

令和3年9月から印刷が始まった新一万円札(出典:財務省ウェブサイト)

令和3年9月から印刷が始まった新一万円札(出典:財務省ウェブサイト)

なお、報道は余りありませんでしたが栄一の肖像を載せた紙幣は前にありました。それは、前述した明治35年朝鮮の第一銀行によって発行された1円、5円、10円の3種類の紙幣です。そのため、栄一の肖像が載る新一万円券の発行が日本で報じられると、直ぐ韓国のメディアは、「日本の新紙幣の人物は経済侵奪の張本人」、「朝鮮半島を経済侵奪した象徴的人物が新紙幣に」などと批判的に報道しました。

第一銀行が朝鮮で発行した栄一が肖像の一円札

第一銀行が朝鮮で発行した栄一が肖像の一円札

なお、仁川市はソウルから西に40キロに位置する港湾都市でちょうど東京と横浜のような位置関係で、著者が30年以上前に仁川市を訪れた時は小さな港町の様子でしたが、2001年に仁川国際空港ができて、近代的な街に変わりました。金融に加え、栄一が韓国において大きく関わった事業が鉄道事業です。
京仁鉄道譲渡契約(京城『ソウル』から仁川『インチョン』間)は明治30年に、翌年には京釜鉄道敷設契約(京城『ソウル』から釜山『プサン』間)も締結され、栄一は京仁鉄道の社長、京釜鉄道は会長に就任しています。京仁鉄道が明治33年、京釜鉄道は明治41年全面開通しました。当時の朝鮮政府は財政がひっ迫して、多くの国有利権を外国人に売り払っていました。その中で京仁鉄道敷設権は、アメリカのモーリスが敷設権を獲得して建設を開始しましたが、労働争議、支払い争議などで工事が中断し、建設半ばで栄一らの京仁鉄道合資会社に敷設権を売却したものです。
渋沢は右の鉄道買収、敷設の資金調達に関して政府、議会に働きかける等実現に向けて精力的に働き、さらに明治39年の南満洲鉄道設立にも関わることになります。(第103回会計・監査の道参照)

また、仁川市は朝鮮戦争時、北側に占拠された韓国をマッカーサーの仁川上陸作戦(1950年)で戦況を一変させた歴史的場所でもあり、暑い夏に汗をかきながら上った自由公園にある大きなマッカーサー像が印象に残っています。

(参考資料)
「渋沢栄一自伝」 渋沢栄一 角川ソフィア文庫  2020
「民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交」 片桐庸夫 藤原書店  2013
「渋沢栄一 民間経済外交の創始者」 木村昌人  中公新書  1991
「第一銀行50年小史」  第一銀行 編  1926
「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢栄一」 島田昌和  文京女子大学経営論集  1999

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