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社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第129回 会計・監査の道

渋沢栄一は、大久保利通とはあまり馬が合わなかったようです。
栄一が大蔵省に大丞だいじょうきょう大輔たいふ少輔しょうふに続く官位)として仕官していた頃、大久保から大層嫌われたと晩年述べています。
栄一が大蔵省に入ったとき、大久保は大蔵卿(長官)で、その下に井上かおる大蔵大輔(副長官)がおり、主として井上に使われる事になっていました。井上はとても機敏の人で、見識も高く、良く栄一を理解し一緒になって楽しむ遊び仲間にもなっており、とても親しみを持っていたと言います。栄一は、大久保について、次のような経験談を書いています。
明治4年8月、大久保から突然に、陸軍省の歳費を8百万円、海軍省の歳費を2百50万円に定めることにしたからその承認を求められました。当時の新政府の財政状態はかなり不安定で、歳入は4千万円ほどありましたが、これも不確かでありきちんとした歳入出の管理がなく、歳入を明確にして歳出を抑制することが必要とされていました。
これらの管理が十分にできていないうちに、大久保は、陸海軍合わせて1千50万円の経費を支出しようとしており、栄一らの考えている財政計画を無視したことになるので、大久保の申し出に賛成できないと考えました。
そこで諮問会議の席上で、大久保に対して、次のような反対意見を述べました。「総じて財政は量入為出りょうにゅういしゅつ(収入を計算してその後に支出を決めること。)をもって原則とせねばならぬ、国家の財源が豊かになりさへすれば為出量入の方針を取るも敢て妨げなきに至るやも知れざれど当時は未だかかる状態に国家の資源が発達して居らぬ、然るに、歳入の精確なる統計も未だ分明せざるに先ち、兵事は如何に国家の大事なればとて、之が為一千五十万円の支出を匆卒そうとつ(突然なこと)の間に決するなぞとは以ての外のことである。」
この意見に対して大久保は、それなら渋沢は陸海軍の方はどうでも構わぬというのか、と言うので栄一は、軍事の大切なことはわかるが、歳入が計算されるまでしばらく待ってほしいと意見を述べましたが、残念ながら多数の賛成意見で大久保の申し出が決定されてしまいました。このようなことがあり、後に栄一は大変大久保に嫌われたものであったと述懐しています。

大久保は、当時維新三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)の一人と称せられるほどの人物と評されていましたが、栄一はかつて幕府を倒すことを志にしており、幕府を倒して出来た新政府に対しては決して悪感を抱いていたということは無かったのですが、薩人が暴戻ぼうれい(あらあらしく道理に反する行為をすること。)であるとの感は多少持っていたようです。
大久保が西郷のようにもっと度量の大きい人物であったなら、栄一のごときを相手にして争うようなことはせずに、意見を聞いてやろうという態度に出られたのではないか、この点が西郷や木戸との違いであって、よほど自我の強い人のように思われると述べています。
しかし、一般の大久保評は栄一とは違い、伊藤博文は、大久保に対して誠に珍しい度量の広大な方で、しかも公平無私で、誰でも人を重んずる風があり非常に広い大きな人物である、と評しており、大隈重信も大久保は辛抱強い人で、喜怒哀楽顔色に現わさず、寡言かげん沈黙(落ち着きがあって、口数が少ないこと。)、常に他人の説を聴いている、と評しています。栄一は、この諮問会議における出来事の印象について、大久保を評価しているものと思えます。
なお、大久保の孫である大久保利春(1914年~1991年)は、丸紅の専務のとき、昭和51年のロッキード事件に関係して贈賄側の一人として逮捕・起訴され、有罪判決を受けたことは、まだ記憶に残っています。

栄一は、さらに西郷についても自叙伝で多くのことを書いています。
この一部については、前に本稿において次のように書きました。要約しますと、栄一の大蔵省時代に西郷が彼の自宅にふいに訪れ、二宮尊徳が相馬藩に導入した興国安民法(報徳仕法・御仕法とも呼ばれる。)を廃止しないようにとの話をして帰りました。
当時参議である高い身分の西郷が官位の低い栄一を訪ねることは異例であり、栄一は大変恐れ入りましたが、その時、次のように自分の意見をはっきりと言いました。西郷はこの興国安民法を詳細に知らず、栄一を訪ね、栄一から説明をうけ初めてその内容を理解しました。そして、せっかくの良法だから維持するように要請したのに対して、栄一は「確かに興国安民法を廃止せず、これを引き続き実行すれば、相馬藩はますます繁栄するであろうが、それよりも国家のために興国安民法を講ずることが、急務であり、一国を双肩に担い、国政運営の大任に当たる西郷参議の御身をもって、国家の小局部である相馬一藩の興国安民法のためには御奔走されるのはいかがなものか。」と話したとされています。西郷は、栄一の意見を聞き、帰りました。
西郷がなぜ相馬藩の話をしたかについては、「第51回監査の道」を参照してください。なお、昭和51年に制定された相馬市の市民憲章には、下記のように尊徳の報国精神がうたわれました。

≪相馬市 市民憲章≫   昭和51年制定

・美しい相馬の海と山とを、うたいつぐふるさとのうたと共に、あすのくらしにのこそう。

・報徳の訓えに心をはげまし、うまずたゆまず豊かな相馬をきずこう。

・ふるきをたずね、新しい相馬のまちづくりに一人一人の力をかたむけよう。

二宮金次郎勉学の姿、貧しく紙が買えなかったので、砂に字を書いて学んだ。 小田原市尊徳記念館

 

二宮金次郎勉学の姿、貧しく紙が買えなかったので、砂に字を書いて学んだ。
小田原市尊徳記念館

 

 

また、栄一は次のような西郷の言動についても感心しています。
それは明治4年7月始め、廃藩置県実施の少し前でした。政府内で会議が開かれ、木戸孝允、後藤象二郎、江藤新平をはじめ諸卿がずらり並び、君主権と政府権との区別に関する議案について議論を戦わし、栄一もこの会議に出席していました。
そして会議の末、この議題は重要であるので、三条、岩倉両公にも、出席を願って相談しようということになり、栄一が両公呼出しの手紙を書くことになりました。そこへ西郷がぬっと入ってきたので、木戸は、今の議論を説明して栄一の書面を西郷にわたすと、西郷は全員を見まわして「まだ戦争が足りませんな。」と突拍子もないことを言いました。ただ、それしか言わず西郷は出て行ってしまいました。
君主権と政府権との区別問題に、まだ戦争が足らぬというのは随分妙な言葉であり、理解できず、西郷は少しうつけ(愚か、ぼんやり)だな、と栄一は思ったそうです。
会議の帰りに井上大輔の馬車に同乗した栄一は彼に「今日、西郷さんが妙なことを言ったが、あれは一体何のことですか。」と質問してみたら、やはり。彼も「俺にもどうも分らん。なんで戦争を持ち出したのか、雲をつかむような話だ。」との返事でした。そして、しばらくして井上は西郷の言ったことが分かったとして、栄一に次のような話しをしました。
「西郷さんの言った言葉が分かった。近く、廃藩置県が行なわれるが、そうなると必ずこれに反対の旧藩のものが、叛旗をひるがえすに相違ない。これを討伐した後、始めて新政府の基礎が出来る。今から、君主権と政府権の区別を言うやつがあるかい。まあ、一口に言えばそういうことだろう。」
西郷の真意は、廃藩置県が先決問題であり、廃藩置県を本当にやりあげたその土台の上に法制を整備しなければならない。今急いで、目下の中途半端な世の情勢を基として主権と政府権の区別のような取り決めをすることは無駄であるうえに、ことは皇室に関わるものであるから軽々しく改廃するのは敬意にも欠け、困難をも生じるからよろしくない、との趣旨でありました。
このような西郷の真意を知った時、栄一は、西郷に驚くべき先見の明のあることを知り、そこで始めて「西郷恐るべし。」と感じたと述懐しています。
実際、この後各地の不平士族らが立て続けに反乱を起こし、初めは明治7年に元司法卿江藤新平が故郷佐賀に帰り、不平士族と共に政府に対して反乱を起こし、その後神風連の乱 秋月の乱 萩の乱と続き、最後に西郷を盟主とした薩摩士族の反乱である西南戦争が起きました。

なお、君主権と政府権との区別に関する議論については、明治22年大日本帝国憲法が発布され(翌23年11月施行)、そこで規定されたのは立憲君主制でしたが、強い君権主義的傾向の天皇主権となり、国会の地位は低く、その権限はきわめて制限されたものでした。
すなわち、立法権を有するのは天皇であり、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされました(大日本帝国憲法第5条)。帝国議会は立法機関ではなく立法協賛機関とされたわけです。

大日本帝国憲法 御署名原本 国立公文書館デジタルアーカイブより

大日本帝国憲法 御署名原本
国立公文書館デジタルアーカイブより

 

(参考資料)
「渋沢栄一 Ⅰ算盤扁」 鹿島茂 文藝春秋  2011
「渋沢栄一 雨夜譚/自叙伝(抄)」渋沢栄一 日本図書センター  1997
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団
「大久保利光」 毛利敏彦  中公新書 1969

 

 

 

 

 

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