アカウンティングロード

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第128回 会計・監査の道

1863年6月(文久3年)、ナポレオン3世の勅令によりパリ万国博覧会の開催が決定されました。この万博への出品と招請が慶応3年に幕府に届き、徳川慶喜が弟の昭武(15歳)をパリ万博使節団として送ることになり、渋沢栄一(27歳)も、その随行員(会計兼書記)としてフランスに渡ることになりました。(第41回監査の道参照)
栄一は、その旅の途中で、工事中のスエズ運河を見て、その事業は、フランスやイギリスの株主によるコンセッション方式によるスエズ運河会社によるものと知り、栄一の経営思想である公益追求の目的を達成するために最も適した方法は会社組織にして人材と資本を集め、事業を進める、という「合本(がっぽん)主義」の発想に思い至りました。(第123回会計・監査の道参照)

いわゆる万博とは、現在は、博覧会国際事務局(BIE: Bureau International des Expositions 1928年パリに創設)の承認のもとに、国際博覧会条約に基づき開催される国際博覧会と定義されており、170ヵ国が加盟している博覧会条約の規定に適合したものをいいます。
従って、BIEの承認を得た博覧会は、日本では昭和45年(1970年)の大阪万博(3月15日から9月13日)が最初の国際博覧会になります。その入場者数は、6,422万人で昭和45年の国勢調査によると日本の人口は1億3百万人であり、いかに入場者数が多かったことが分かります。なお、この日本の人口には、沖縄には国勢調査は実施されず沖縄の人口は含まれていません。琉球政府の公表では、94万人とあります。いまさらながら、この事実に驚きました(沖縄が米国より返還されたのは、昭和47年)。
また、大阪万博が開かれた年は筆者が大学を卒業した年であり、妹が就職した金融機関の大阪寮に母親と3人で泊まって、万博を見学しました。ホテルなどは取れず、またそのような所に泊まる発想もない時でした。その後、監査法人に勤め始めてしばらくは、出張は商人宿の相部屋に泊まりました。
なお、2025年5月から11月にかけて再び大阪で万博が開かれます。

日本の万博の歴史を振り返りますと、博覧会は多く開かれており、日本の最初の万博は東京上野公園において、明治10年8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会(総裁大久保利通、副総裁松方正義、審査官長前島密、入場者数454千人)として開催されました。これは、内務卿大久保利通が富国強兵・殖産興業勧業政策の一環として博覧会の開催を提唱したことによります。
その後、明治期にはこの博覧会は5回開かれ、3回目までは上野で開かれましたが、4回目は京都(明治28年)、5回目は大阪(明治36年)で開かれました。

「内国勧業博覧会行幸の図」 明治天皇・皇后と大久保(左)明治神宮聖徳記念絵画壁画集より

「内国勧業博覧会行幸の図」
明治天皇・皇后と大久保(左)明治神宮聖徳記念絵画壁画集より

博覧会は大正になっても続き、大正11年(1922年)、第一次世界大戦の終結を祝う平和記念東京博覧会が上野で開催されました。博覧会の目的は、世界平和の祝福と商工業の発展に資するためであり、また戦後の日本の進歩した産業を紹介し、国力の発展を内外に知らせるためでもありました。入場者は過去最高の1100万人となり、当時の人口が5000万人強であったので、相当な人気であったことが分かります。英国皇太子(エドワード)が来日して会場を訪れるなど、大反響を呼びました。
なお、エドワード皇太子は、後に1936年、エドワード8世として王位を継承することになりましたが、アメリカのシンプソン婦人と恋に落ち、1年も経たずに退位して英国を出ることになりました。そして、いきなり弟のジョージ6世が王位を継承することになり、彼は、内気で吃音があるためスピーチが大変苦手でした。
しかし、次第に王としての自覚に目覚めていき、吃音を克服して国民の信頼を得、第二次世界大戦でドイツと戦いました。しかしこのときの心労もたたり、ジョージ6世は戦後わずか56歳の若さでこの世を去りました。そして、次に王位に就いたのが長女のエリザベス女王です。ジョージ6世については、2011年のアカデミー賞受賞映画「英国王のスピーチ」に詳しく紹介されています。

エドワード皇太子(ウィンザー公爵) 1919年 Wikipediaより

エドワード皇太子(ウィンザー公爵
1919年 Wikipediaより

日本は第一次世界大戦では戦勝国側となり、連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益やパラオなどの南洋諸島を譲り受けました。日清、日露、世界大戦と日本は常勝ムードに覆われ、大陸進出機運がより高まり、朝鮮館、台湾館、満蒙館、南洋館、西伯利亜(シベリア)館など外国の展示館も建てられました。栄一はこの博覧会の協賛会会長として、多額の寄付をして開催に協力しました。

平和記念東京博覧会絵葉書  大正11年3月~7月 上野公園にて 博覧会会長東京府知事宇佐美勝夫(右) 協賛会長渋沢栄一(中) 総裁閑院宮(左)

平和記念東京博覧会絵葉書  大正11年3月~7月 上野公園にて
博覧会会長東京府知事宇佐美勝夫(右) 協賛会長渋沢栄一(中) 総裁閑院宮(左)

この東京で最初の博覧会が開かれた明治10年という年は、実は大変な年でありました。前年までに政府の実施した廃藩置県、徴兵令、廃刀令、秩禄処分(第84回監査の道参照)などによって、多くの士族は失業することになり、各地の不平士族らが反乱を起こし、政府はこれらをやっと収束させたときでもありました。すなわち、佐賀の乱 神風連の乱 秋月の乱 萩の乱と立て続けに反乱がおき、さらにはこの年の2月から9月にかけて西郷隆盛を盟主とする薩摩士族の反乱、すなわち西南戦争も起きました。9月に西郷は城山で自刃して、戦争は終結しました。そして、西郷の敗北は、政府に不満を持つ士族たちに武力で政府を倒すことは不可能であることを分からせることになり、士族たちは、これからは武力ではなく、言論で政府と戦う自由民権運動に参加するように変わっていきました。

博覧会総裁の大久保も西南戦争で自刃した西郷も同じ薩摩藩の出身で、両者は共に藩主島津斉彬なりあきらに登用され、尊王攘夷を唱える若手藩士の先頭に立ちました。そして、明治政府樹立に多大な貢献をしたわけですが、この明治10年という年は、二人の生死を分かつ年でもありました。初代内務卿となった大久保は、富国強兵殖産興業政策を推進し、実力者となっていったの比べ、西郷は征韓論が叶わず、下野しそして戦死するということになったわけです。しかし、翌年大久保(47歳)の身にも、災難に襲われました。5月14日午前8時ごろ、明治天皇に謁見するため、麹町区三年町の自邸を出発し、2頭立ての馬車赤坂仮皇居へ向かっている時、紀尾井町清水谷において、石川県士族島田一郎などの不平士族によって大久保の乗る馬車が襲撃され、暴漢に惨殺されてしまいました。

大久保利通  Wikipediaより

大久保利通  Wikipediaより

(参考資料)
「大久保利光」 毛利敏彦  中公新書 1969
渋沢栄一 雨夜譚/自叙伝(抄)」渋沢栄一 日本図書センター 1997
「デジタル版渋沢栄一伝記資料」 渋沢栄一記念財団

 

 

 

 

 

 

関連記事