アカウンティングロード

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第127回 会計・監査の道

幕末から明治にかけて活躍した経済人は多くいますが、渋沢栄一ともう一人といわれれば岩崎弥太郎があげられます。
栄一は天保11年(1840年)の生まれですが、弥太郎は少し早く天保5年(1834年)の生まれです。二人とも明治になって武士から実業家に転身し、栄一は最近ではテレビドラマなどで取り上げられ有名になった深谷の藍玉製造販売、養蚕、米などを扱う豪農の生まれで商売の経験があり、弥太郎は土佐の下級武士の家に生まれ、土佐藩の土佐商会で欧米商人から船舶や武器の輸入などを行い商売の経験を積みました。そして、もし生きていれば、ここに3人目の経済人坂本龍馬(天保6年生れ)が現れたのではと、思います。なぜならば、龍馬もまた土佐の質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の生まれで、商社的な海援隊を組織し商売をしていたからです。弥太郎と龍馬は、同じ土佐藩同志であり交わりがあり、龍馬が長崎で海援隊として活躍する一方、弥太郎は土佐商会長崎出張所の主任となり、龍馬を財政面で支えていました。二人は、度々会い、丸山の老舗料亭花月(現在、長崎県史跡指定)で酒を酌み交わしたことと思います。この料亭の部屋の床柱に酒の勢いで龍馬がつけたとされる刀傷が残されています。

司馬遼太郎の小説「竜馬が行く」においても、薩摩人の案内により竜馬が丸山で遊んだ場面が描かれています。「その夜、竜馬は丸山で遊んだ。・・・思案橋のたもとに紅燈こうとうがゆれ、柳が数本、灯影ほかげにあざやかなみどりを垂らしている。その橋をわたれば、すでに絃歌げんかのちまたであった。・・・頭上から端唄『春雨』が聞こえる。案内されたのは引田屋ひけたやといううちだった。丸山随一の花楼で、現在では『花月』という屋号にかわり、・・・座席に通され、芸妓が数人、酒宴になった。」

長崎市丸山花街

長崎市丸山花街

また、弥太郎と栄一についても実業界で色々な接点がありました。そのひとつとして、当時業績を伸ばしていた海運・貿易業に欠かせない海上保険会社を設立する動きがあり、明治12年8月、資本金60万円をもってわが国初の海上保険会社である東京海上保険会社が設立されました。設立時の株主には、元徳島藩主蜂須賀茂韶はちすかもちあきなどの華族、岩崎弥太郎以下三菱関係者に加え、渋沢栄一、大倉喜八郎、安田善次郎などの一流財界人など約200余名が名前を連ねていたそうです。また、会社の相談役として弥太郎と栄一両名が就任しました。

しかし、栄一と弥太郎の関係は決して良好のものではありませんでした。これは、有名な「向島むこうじまの対決」で明らかになります。向島は、現在の墨田区にあり、その地名の由来は、「浅草から見て、隅田川の向こうにあるみやびな街」から来ているそうで、江戸から明治にかけて花街として栄え、料亭・置屋・和菓子店が多く軒を連ねていました。

向島の対決とは、隅田川の屋形船での両者の激しい論争のことです。明治13年、弥太郎が栄一を向島の料亭柏屋に招待したことがきっかけとなりました。栄一が柏屋に行くと酒と料理それと芸者も加わり宴会が開かれました。宴たけなわになったとき、二人は屋形船に移りさらに宴会を続けることになりました。そこで、弥太郎は栄一に次のような問いかけをしました。「これからの事業はどのような形で行うのが良いか。」そこで栄一は、例の合本がっぽん主義の優位性を説いたわけですが、弥太郎は、「合本制は船頭多くして船、山に登ることになりはしないか、会社は才能ある者が独善的に強力に推し進める方が良い。」と主張し、栄一の合本制は理想論にすぎない、合本なんて駄目だと独占の持論を主張しました。そのため、両者は言い争いになり、栄一は黙って帰ってしまいました。このとき、栄一は弥太郎の経営理念は受け入れられないことを確信し、それ以降、両者が事業を共同で行うことは無くなりました。

「向島の墨田公園」すみだ観光サイトより

「向島の墨田公園」すみだ観光サイトより

弥太郎は、明治3年土佐藩から藩船を借り受け、九十九商会を設立し、その後三菱汽船会社となり海運業を成長させてきましたが、特に明治6年佐賀の乱、明治7年台湾出兵、明治10年西南戦争などで政府軍の海上輸送に協力し、政府の信認を得て政商としての地位を固めていきました。すなわち、弥太郎個人の卓越した判断力・政治力により三菱汽船会社を独占的な海運会社に育てていったわけです。弥太郎は明治8年5月に「三菱汽船会社規則」を制定しました。そこでは、立社体裁(会社組織)として「第一条 当會社ハしばらク會社ノ名ヲ命シ會社ノ体ヲ成スト雖モ其実全ク一家ノ事業ニシテ他ノ資金ヲ募集シ結社スル者ト大ニ異ナリ故ニ會社ニ関スル一切ノ事及ヒ褒貶ほうへん黜陟ちゅっちょく(賞罰と身分査定)等すべテ社長ノ特裁ヲ仰クヘシ」として社長独裁主義を規定しています。そして、第二条にあるように会社の利益もすべて社長に帰属させました。「第二条 故に會社之利益ハ全ク社長ノ一身ニ帰シ會社之損失モまた社長ノ一身ニ帰スベシ」 会社は、弥太郎の強力なリーダーシップが反映されたものになっていました。弥太郎は、会社というものはすべて社長が決めるものであり、そして、その結果の責任もまた社長一人で負うものである、との考えをこの規則に込めたものといえるでしょう。

栄一は、後に弥太郎の経営理念に対して、次のように述べています。

「私は、弥太郎氏の何でも自分がひとりだけでやるという主義に反対であったものだから、自然と万事に意見が合わなかったのであるが、・・・・弥太郎氏は私とも交際をしておきたいとのことで、わざわざ当時私の居住しておった兜町の宅へ訪ねて来られたのである。・・・それ以来交際するようになったのだが、根本において私とは意見が違い、私は合本組織を主張し、弥太郎氏は独占主義を主張し、その間に間隙があったので、ついにそれが原因になり、明治12、3年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。」

なお、弥太郎と同じように台湾出兵にかかわったもう一人の同時代の実業家に大倉喜八郎(天保8年生れ)がいます。喜八郎は若くして越後新発田しばた藩(現在の新潟県新発田市)から江戸に出て、かつお節店で丁稚見習いをしながら資金をため、20歳の時に独立して乾物店大倉屋を開業しました。その後、黒船騒動から武器の必要性を感じ、30歳の時に神田で鉄砲店大倉屋を開業しました。そして、引き受け手のいなかった台湾出兵に必要な物資の調達を引き受け、大変な困難の元にやり遂げ政府の信頼を得て、西南戦争日清戦争など政府御用達として事業(大倉組商会)を大きくしていきました。(第73回監査の道参照)

栄一は喜八郎とも交遊もありました。栄一は喜八郎の名は知っていましたが、初めて会ったのは明治10年西南の役の時に長崎からの帰路の船の中でした。喜八郎は、ちょうど朝鮮が飢饉で困っており、政府の要請で食糧を運び助けに行く途中でした。喜八郎は「国家の為には身を殺しても仕方ない。一身を捨ててもこの仕事はしとげなければならない。」と栄一に熱く語りました。栄一は、この人は商人ながら尋常一様の人ではなく、ただ金儲けばかりに腐心して他を顧みない商人とは違う、わが同胞の一人であると思いました。そして、明治11年栄一が東京商法会議所(現在の商工会議所)を設立したとき、喜八郎はその発起人に名を連ねることになります。喜八郎も栄一と同様に、東京電燈東京馬車鉄道九州鉄道台湾鉄道帝国ホテル、大倉土木組(現、大成建設)、大倉商業学校(現、東京経済大学)など多くの会社等の創設に係わりました。

「大倉喜八郎像」国会図書館ウェブサイトより

「大倉喜八郎像」国会図書館ウェブサイトより

(参考資料)

「初期三菱の経営組織 -海運業を中心にして」 長沢康昭 経営史学第11巻 第3号 1977
「岩崎弥太郎小伝」 三菱経済研究所 三菱資料館 2001
「渋沢栄一」算盤編 鹿島茂 文藝春秋 2011
「渋沢栄一、『岩崎弥太郎』を語る」 渋沢栄一  Kindle 版
「明治を食いつくした男大倉喜八郎」 岡田和裕 産経新聞出版 2019

 

関連記事