中村義人の一言ゼミナール

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第126回 会計・監査の道

渋沢栄一の「合本がっぽん主義」(公益追求の目的を達成するために最も適した人材と資本を集め、事業を進めるという経営思想)は、生涯を通じて実践されました。その思想は、栄一が大蔵省にいる時に表された「立会りっかい略則」(明治4年)という小冊子に触れられています。
それは、会社を設立する略則という意味であると解されています。同書には通商会社および為替会社の説明がなされており、栄一は、かねてからの持論である合本組織の方法を国民に教え、これを指導して殖産興業の途を開くことを願って、公務の余暇にこの書を著わしました。ヨーロッパに外遊した時に、見聞したことが本書を著したきっかけであると記しています。

 

 

 

「立會略則」渋沢栄一
明治4年 国会図書館  デジタルコレクション

本書では、通商会社の前文に次のように書かれています。「商とは物を商量(いろいろ考えて推しはかること。)し、事を商議するの義にして、人々相交り相往来するより生ずるものなり、故に物と事とについて各思慮勘考するの私権によりてこれを論及し、其善悪可否を考へ相融通してともに利益を求むるこそ商の本義といふべし。」
すなわち、ビジネスとは、人々が相談し合いながら、正しいやり方で利益を追求するものである、と説明します。
そして、「商社(会社)は、会同一和する者の、ともに利益を謀り生計を営むものなれども、また能く物貨の流通を助け、故に社を結ぶ人、全国の公益に心を用いる事を要す。」と述べて、「商社は一人々の私利を図るべきものにあらず、よろしく天下の公益を図ることを目的としている。」と説き、会社は利益の追求と公益の尊重を同時に達成すべきであるとして、後の道徳経済合一説へと繋がる思想を明らかにしています。明治の初めに、このような考えを打ち出していることは驚くべきことと思います。

東京商科大学学長であった経営学者の上田貞次郎(明治12年-昭和15年)は、「渋沢子爵とアダム・スミス」という題名でこの立会略則について、「竜門雑誌」(竜門社 大正14年)において論評しています。

上田は、竜門雑誌の記者から、何か話をするようにと求められたので、日本における株式会社の歴史を調べると、この制度の開山たる、青淵せいえん先生(栄一の雅号、師であった尾高惇忠おだかあつただからつけてもらった。栄一は、家の下にふちがあって、その関係から家を渊上小屋と名付けられ、そこから青渊という号が出来たといっています。)が書いたものを見つけました。
それによると先生は維新前ご洋行中にヨーロッパの会社制度に著眼ちゃくがんせられて、国の富を起すには是非ともこの制度を採用しなければならぬとして、明治政府におられた最初に「立会略則」という書物を書き、民間に下ってから、第一銀行を設立して、自ら会社制度の模範を示したと述べています。
さらに会社制度を起すのは単に金を集める手段となるばかりでなく、人材を実業界に入れる手段として、最も有効なるものであることは確かであり実際に、子爵の見込通り、国立銀行を初めとした各種の新事業は、会社の形式により士族の才幹さいかん(物事を成し遂げる知恵や能力)によって非常な発達を遂げたと、称賛します。

明治維新後、武士の身分はなくなり、士族は秩禄ちくろく処分(士族に与えられた家禄等を廃止し、救済措置として公債を支給)という政府の援助はありましたが、士族は失職して経済的に困窮しました。
政府は、そのため各地で士族殖産事業を始め、役人への登用の他、農工商などへの就職を斡旋しましたが、士族は、簡単には武士としての矜持きょうじを捨て去るわけにはいきませんでした。

江戸においては、徳川将軍家の家臣団である旗本、御家人は当時3万人を超えていました。なお、全国の士族の数は150万人といわれています。この家臣団は江戸に入った薩長に家を明け渡し、職をなくし各地に移り住みました。

その家臣団のうち、約1万3千人は徳川家を継いだ德川家達いえさと(16代当主、静岡知藩事)が静岡に移封されたことにより、共に江戸を離れ静岡藩士族として静岡に移転させられました(明治2年)。
彼らの一部は、刀を鍬に持ちかえ、幕府の領地であった未開の地の開拓を決意し、そこに大井川 川越制度が廃止されたことにより、失職した川越人足(約1,300人)の一部も加わりました。当時の主要輸出品目であった茶の栽培をすることになり、荒れ野原だった牧之原台地(現在の牧之原市)における茶畑の開墾が始まり、大変な苦労のもとに今日の茶の有名産地にまで発展させました。日本各地でこのような士族の苦労が始まったわけです。栄一も同様に静岡藩仕官を命じられて静岡に移り住み、かの有名な商法会所(銀行と商社の業務を行う合本組織)を開き、地域の産業振興に尽くし、そこであげた利益は静岡藩の財政を助けました。
ちなみに、著者の故郷は牧之原から大井川上流に向かって中頃の川根茶の産地、島田市川根町です。

 牧之原台地の茶畑

上田はアダム・スミスの意見についても次のように紹介します。スミスは、株式会社というものは大勢の人の金を集めて、少数の重役に運転せしめるものである。この重役は普通の商人のように、自分の金を取り扱っているのではなく、人の財産を預かっているので、事業に対する熱心さが足りず、従って経営が放漫になり、時として不正行為や浪費が行われる、そのため株式会社というものの多くは失敗に帰することになる、と説明しています。
このスミスの考えと渋沢の維新当時の考えとを対照して見ると、スミスは、株式会社はこのように利害関係が薄いから成功は困難であるとするのに対して、渋沢は会社経営には多少の名誉が伴うから、立派な人物を引き付け得ることになるといい、この二つの意見は衝突するわけではなく、眼の付け処が異なっていると述べています。
特に日本の場合、士族は昔から、殿様の御用を勤めるということ、即ちスミスの言葉をもってすれば「他人の財産を管理することに長い経験を持っている」、そこに一種の清廉潔白なる風儀を養い得て実業界でも会社の発展に貢献したのであり、これはわが国にとって非常に幸福なことであったと、言い切ります。

明治になって武士的な道徳感や品行を保とうとしたのは、官僚となった士族だけではなく、農業や商業を選んだ士族も、その中で武士的な名誉意識を保持し続けた者も多く、「士魂商才」のような公共性を重んじる経営哲学を経済界に持ち込んだことと思えます。前述の上田のいう、武士としての清廉潔白なる風儀を養って実業界でも会社の発展に貢献したことは良いことであった、との意見は、まさにこのことを述べたものです。そして倒幕の志士であった栄一自身も、維新という時代の流れに翻弄されながらも官界、実業界へと変転し、武士的道徳心を持ちながらわが国経済の発展に貢献した士族の一人であったものと思われます。

また、上田は、アメリカの自動車王ヘンリー・フォードの自伝から、フォードは「三十年前に、その事業を初めてから今日に到るまで、他人を押し倒して金を儲けたことはない、自分は生産費の節約のために苦心して、その結果良いものを作って大きな販路を開拓し、結果として金も出来たのである、自分の考へでは、ビジネスはソシァル・サービスであるから、社会の用務を勤めることが先でもってその目的でなくてはならない」と申していると言います。
フォードは、T型フォードという大量生産向きに企画された安価な自動車を生産したことにより社会の用務に応え、事業を成功させました。テイラーの科学的管理法を応用して流れ作業を考案し、独自の大量生産方式を確立したことが、成功の大きな要因です(第110回監査の道参照)。

上田のいうフォードの自伝が何かは不明ですが、現在日本で入手できるのは、中公文庫の自伝「藁のハンドル」(1926年)ですが、そこで彼は、自動車の価格について、「価格の引き下げこそ本当の繁栄を示す目印であり、価格の引き下げによってはじめて繁栄を常態にすることが可能となり、繁栄とは、私たちの必要とするものが、容易に、しかもとぎれずに供給されることである。」と述べています。この経営思想は、日本においても松下幸之助の水道理論と共通するものと思えます。
すなわち、生産者の使命は、貧困をなくすために貴重な生活物資を水道の水のごとく無尽蔵に供給することにある。さらに、フォードは利潤に関してこういいます。「企業はそこに関係するあらゆる人々に報いるべきであり、また企業内で用いられているあらゆる要素に対して、報酬を支払うべきである。信頼して企業を支えている大衆にも報いなければならない。売り手はもちろんのこと、買い手のためにも利潤を生まない企業は、よい企業ではない。」
この考えは、やはり幸之助の企業責任論とも共通するものが見られます。幸之助は、企業の責任とは事業を通じて社会に貢献するということにあり、その結果、報酬として社会から与えられるのが利益であるといいます。利益があれば、税金を払い、取引先にも支払い、従業員にも賃金を支払い、株主にも配当ができる。従って、赤字は本来の企業の使命を果たしていないことになる、と。
この経営観は、今日でいうステイクホルダー経営に通じ、さらに地球規模に拡大したSDGs経営にまで進んでいくことになります。

(参考資料)

「渋沢子爵とアダム・スミス」 上田貞次郎 竜門雑誌第445号 大正14年10月
デジタル版渋沢栄一伝記資料(渋沢栄一記念財団)
「秩禄処分」 落合弘樹  中公新書 1999
「藁のハンドル」 ヘンリー・フォード  中公文庫 2002

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