中村義人の一言ゼミナール

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第125回 会計・監査の道

さて、栄一は、東京に使用する水道鉄管は、まだ国内で品質の良いものは製造することはできず、これから国内で製造するとなると完成も延び、また品質にも問題が出るとして、これまでの鉄道事業やガス事業のように、最初は外国製を用いて外国人の技師を招聘しょうへいしてその技術を学ぶようにしたらどうかと意見を述べました。しかし、産業振興から国内製を納入しようとする意見もあり、また、渋沢は外国企業からコミッションを取る目的で、国内産をけなす売国奴とののしられたりして、国内製か外国製について大紛糾となりました。

そして、結果的には、東京市は、国内で製造することに決定して、明治26年東京月島の「日本鋳鉄ちゅうてつ合資会社」(その後資本金40万円の株式会社に変更)を発注先に決めました。しかし、その会社は設立されたばかりで、工場もまだできていないうえに、甲州出身で財界の雨宮敬次郎が株主となり経営の実権を握りました。彼は、鉄道事業を多く手掛けたほか、アメリカ製の石臼製粉器を導入して、明治12年東京府南葛飾郡(現在の江東区扇橋)で製粉所「泰靖社」を創業し、さらに明治29年近代的機械式製粉を導入して日本製粉株式会社を設立しました。現在の株式会社ニップンです。筆者は、ニップンの環境報告書の手伝いをしたことがあり、その時小麦粉の国家備蓄管理制度を知り驚きました。日本で消費されている小麦粉の約9割は外国産の小麦から作られており、輸入小麦は日本政府が買い付け、国内の製粉会社に売り渡すしくみがとられています。小麦粉は、現在石油の国家・民間備蓄(約7ヵ月)のように輸入が途絶した場合に、他の輸出国からの代替輸入に要する期間を考慮して、輸入小麦需要量の2.3ヵ月分の民間備蓄が決められています。小麦粉は、私たちが毎日食べているパン、麺、パスタ、ケーキなどの原料であり、日本では弥生時代に小麦を食料として育てるようになりました。

栄一によると、「有力者が鋳鉄会社設立に賛助してもらえるように頼み込んできたが、無経験の水道鉄管の製造はまだ無理であり、必ず失敗するので協力はできないと断った。」と言っています。この有力者とは、日本鋳鉄合資会社の社長 遠武秀行とおたけひでゆき(海運・造船の実業家)で、彼は「何回も栄一を訪ね協力を要請したが、激論の末いつも断られたが、最後には理解を得られた。」と述べています。このように、使用する水道鉄管でもめている最中に、明治25年12月栄一が兜町の事務所を二頭立て馬車で出たところ、二人の暴漢の襲撃を受けました。暴漢に一頭の馬車馬の足を傷つけられたので、馭者(ぎょしゃ)が馬に鞭を当て直ぐ走らせ難無くその場を脱することができ、本人には危害は及びませんでした。この暴漢は、遠武秀行が壮士を使って脅そうとしたものではないか、と世間で騒がれましたが、あとで話を聞くと、この暴漢は真に栄一の生命を取ってやろうなどいう気は無く、ただ、ある者より受取った1人30円の金銭に対して、申し訳ばかりに栄一を脅かしたに過ぎないということが分かりました。

さて、明治26年水道建設は、盛大な起工式も済ませて順調に進むかに見えましたが、またまた問題が発生しました。東京市はすでに国産品の鉄管を使用することとしていましたが、契約した製造業者の生産体制が十分に整わず、鉄管の納入が大幅に遅れるという事態になりました。さらに、鉄管問題は悪化し、製造会社が東京市の検査で不合格となった鉄管を合格品と偽って納入するという不正事件まで引き起こすことになりました。そして、この事態が明るみに出て刑事事件となり、府知事の辞職、市会の解散などの政治問題へと発展しました。この鉄管の品質問題は、不景気で解雇された職工長がおそれながらと訴え出て初めて事件が明るみになったそうです。最近でも、大手電機メーカーの製品検査不正が明るみになり、その経営体質が問題となりましたが、いつの時代もこのような不祥事は発生するように思えます。現在の東京都水道局も平成24年、その職員が資材置場の整備工事等に関して取引業者に担当職務に関する情報を教示して、飲食接待及び現金供与を受けたことにより、収賄容疑で 逮捕・起訴されるという事件が起きています。(「水道局汚職等防止策検討結果報告書」 平成24年11月 東京都水道局汚職防止対策本部)

不合格品の鉄管は、すでに地中に埋設されており、これらの鉄管を掘り起こして、外国製の鉄管を埋設することになり、その手間により、水道工事は大幅に遅れることになりました。まさに栄一が警告した通りのことが起こってしまったわけです。栄一は、後に、「かつて私を売国奴として罵った人々も、初めて私の主張が公正無私の誠意からでたものであることが判り、濡れ衣がようやくとれたような次第であった。」と述べています。色々なことが起きましたが、明治31年12月になって、淀橋浄水工場から本郷給水工場を経て神田、 日本橋方面に初めて近代水道が通水されることとなりました。なお、淀橋浄水工場移転後の跡地は、昭和35年の新宿副都心計画に基づき、現在の高層ビル街に変貌しました。そしてさらに、2040年に向けて新宿駅を核としたグランドターミナル計画が始まりました。

さて、話を戻しますと、このように、当時は鉄管の国内技術は、まだ未熟でほとんど外国の製品を使用していました。明治18年から20年にかけてわが国初の横浜の近代水道は、英国とベルギーの製品を利用していました。ところが次の東京・大阪の水道事業は、鉄管の数量も多いし、また金額も巨額になるので、国産化の動きが出てきたわけです。大阪では、瀬戸内の因島出身の大出権四郎(明治3年-昭和34年、後に久保田権四郎)が14歳で上阪し、鋳物屋で修行を積みながら資金を蓄え、明治23年に19歳で「大出鋳物」を創業しました。彼も水道事業の必要性を分かり、鉄管の国産化を考え、鋳鉄管ちゅうてつかんの研究・製造に着手し、多くの困難に直面しながら、独自の鋳造法を考案して、大阪に鉄管工場を建設し、鉄管の量産化に成功しました。そして、鋳物いものから鍋・釜などの日用品、機械部品などの製造へと多角化して、久保田鉄工所(現在の株式会社クボタ)へと発展していきました。

(参考資料)

「日本鋳鉄会社沿革史」 遠武秀行  国立国会図書館デジタルコレクション 1901
渋沢栄一 雨夜譚/自叙伝(抄)」人間の記録41  渋沢栄一 日本図書センター 1997
「実録日本汚職史」 室伏哲郎  ちくま文庫  1988
「鋳鉄管70年の歩み」 田中勘七  鋳鉄管第4号 1967

 


小麦

 


淀橋浄水場(東京都水道歴史館近代水道写真館より)

 

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