中村義人の一言ゼミナール

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第124回 会計・監査の道

渋沢栄一は、これまで金融を始めとして約500の会社の設立等に係わったとされています。しかし、当然これらの会社がすべてうまくいったわけではありません。本稿においても大日本製糖粉飾事件について詳述しました(第88~96回 監査の道)。
栄一は、人の順境と逆境は誰でもあるが、「多くは、その人の勉強が足りず、智慧が足らないところから逆境を招致し、反対に智慧もあり、事物に考慮が深く、場合に適応したやり方をする人が順境に立つのは自然の理(ことわり)である。」といいます。
順境と逆境が来るのは、自分の心がけが作り出すものであるとまで言い切ります、しかし、そのあとこうも言います。「智能才幹何一つの欠点なく、勤勉精励(せいれい)の人物であっても、何事も意に反して蹉跌さてつすることがある。この場合は、前に言った逆境とは違う真の逆境である。」社会の風潮、周囲の事情が逆の方向に運んでいけば、これは人の力が及ばないこともあるということです。
栄一も逆境に処してきた者の一人であるとして、その経験について「余は、維新前後の最も騒がしい時代に生まれ、最初は尊王攘夷のもとに東西に奔走していたが、後に幕府の臣下となり、仏国に渡欧したが、帰朝してみれば幕府は滅びて、王政に代わってしまった。」と話し、今までにない社会の大変化に遭遇して、逆境の人になってしまいました。

なお、栄一(27歳)がフランスへ渡航しているときに、坂本龍馬は京都で暗殺されています。明治政府は、龍馬の生前の功績に対して明治24年に龍馬に対して正四位を追贈しました。栄一は、30歳の時初の正七位でした。
龍馬は、慶應3年10月の大政奉還を見届け、11月京都河原町の醤油商近江屋新助宅の二階で中岡慎太郎と会談しているところを暴漢により殺害されたわけですが、33歳の時でした。
前年の3月にも伏見の旅館寺田屋で幕府伏見奉行の襲撃を受け重傷を負ったにもかかわらず、幕府から龍馬の命が狙われているという話しは本人も知っており、土佐藩士後藤象二郎は近江屋の直ぐ前にある土佐藩邸に入れと忠告しましたが、龍馬は従わなかったのです。
この後、直ぐ12月に明治天皇より王政復古の大号令が発令され、幕府が廃止され新政府が成立しました。(第47回監査の道 参照)龍馬は、栄一がいう逆境を自ら招いたものといえます。
もし、龍馬が生存しておれば、後藤のように明治の時代に政治家、実業家として活躍していたことは間違いないと思います。その場合の龍馬像は今日とは違ったものとなっていたことでしょう。
当時の板垣や後藤などの幕末の志士が、明治になり渡欧した時、パリに立ち寄りルイ・ヴィトンのバックを購入しました。このことは顧客名簿にその名が記されており明らかですが、時代の大変化を感じざるを得ません。

さて、龍馬の逆境に比べると栄一の逆境は十分に挽回できるものでした。しかし、栄一にも龍馬と同じような刺客に襲われるさらなる逆境が待っていました。

前回、栄一が、スエズ運河を目の当たりにして、そのコンセッションの仕組みを知り「合本がっぽん主義」に思い至り、事業家は私利私欲のためではなく、公益追求の目的を達成するために事業に当たるべきであると述べました。今日の日本でも、やっと水道事業のコンセッションが可能になり、外国企業と日本企業の協力により事業計画が進んでいることも述べました。この水道事業と栄一は、かつて深い関係がありました。
明治初期の東京の水道は、江戸の水道であった玉川上水・神田上水などをそのまま使用していました。しかし、人口増や衛生上などの理由により近代水道の建設が必要となり、建設工事が明治25年から始まり、明治31年12月に完成して翌年から使用者への給水が開始されました。
日本の近代水道は、神奈川県が英国人技師を顧問に迎え、明治18年に相模川を水源として建設に着手し、明治20年に横浜市で日本初の給水を開始したのが始まりです。この水道建設予算は5年間で総額1千万円になり、財源はすべて公債でまかなうこととしました。当時の東京市の一般財政規模は 50万円程度に過ぎなかったので、 この建設予算は大変巨額なものでした。

この東京水道の工事にあたり、栄一は、東京市の参事会員(市長・助役と共に名誉職である参事会員により行政執行が行われていた。)でもあり、私費を投じて水道調査会を組織して、水道事業を調査研究し、もし、東京市に自営の意思が無ければ会社を組織して水道経営をやろうと目論んでいました。
この東京市の由来は、まず明治元年に新政府軍が江戸を東京と改称して、大阪、京都と同様に東京府を置きました。その後、明治22年に施行された市制町村制に基づき、東京府は東京市を設け、東京15区の区域(麹町区神田区日本橋区京橋区芝区麻布区赤坂区四谷区牛込区小石川区本郷区下谷区浅草区本所区深川区)をもって市域としました。
なお、筆者は深川区の富岡八幡宮(寛永4年、1627年創建)の前で生まれました。深川の地名は、慶長時代(1596年~1615年)、江戸がまだ町づくりをはじめたころ、摂津国(現大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が、この地域の開拓を行い、この深川の苗字を村名としたので、この地一帯をよぶ名称となりました。なお、慶長元年、徳川家康が鷹狩に来た時にお供の深川八郎右衛門にこの地の地名を尋ねられ、まだないと答えたので、家康が「そなたの苗字をもって村名とするように。」と言ったことにより深川という地名が付いた(深川江戸資料館 資料館ノート第136号)と言い伝えがありますが、明確な資料はありません。
なお、その後八郎右衛門は、伊勢の皇大神宮の分霊をお祀りした深川神明宮(江東区森下)を創建しました。この神明宮に保存されている明治34年に建てられた石碑の拓本「深川鎮守天祖神社中興記碑文」にも家康の鷹狩の逸話が記されています。

現在の東京都は、昭和18年東京都制が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都となりました。最近、大阪も府と市の行政制度を、現在の東京都が採用している都区制度に変更しようとする大阪都構想が発案され、2度にわたって住民投票が行われましたが、いずれも否決されてしまいました。
「都」とは「みやこ」とも読み、人が集まる都会・都市の意味のほか、「皆」、「全部」との意味もあります。例えば、「都合5人が参加する。(みんな合わせて=全員で)」などと使います。また、中国語では副詞として「全部、みんな」の意味で通常良く使用されます。例えば、「大家都(dōu)到了。(みんな来ました)」、「什么都(dōu)喜欢。(何でも好きです)」などと。

(参考資料)

「渋沢百訓」 渋沢栄一 角川ソフィア文庫  2010
渋沢栄一 雨夜譚/自叙伝(抄)」人間の記録41  渋沢栄一 日本図書センター 1997
「東京水道の歴史」  東京都水道歴史館HP

 


1869年 スエズ運河開通  Wikipediaより

 


深川富岡八幡宮

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