中村義人の一言ゼミナール

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第123回 会計・監査の道

慶応3年、フランス皇帝ナポレオン3世からの万博への出品と招請に応じた徳川慶喜が弟の昭武(15歳)をパリ万博使節団として送ることになり、渋沢栄一(27歳)は、その随行員(会計兼書記)としてフランスに渡ることになりました(第41回 監査の道参照)。
当時、栄一は一橋に仕えており、随行員の話があったときは、「その時のうれしさは実になんともたとうるものがなかった。人というものは不意に僥倖ぎょうこうがくるものだ。」と後に述べています。使節団は同年1月横浜から出航し、上海・香港・ホーチミン・シンガポール・インド・アラビア半島のアデンを経て、スエズに到着しました。当時、スエズ運河は開削工事中で、船で通ることはできなかったため、一行は下船し、鉄道に乗り換え、その途中スエズ運河の工事を目にして、大変驚きました。全長164キロのスエズ運河は、フランスの外交官レセップス(1805〜1894)の考案により、10年の歳月をかけ1869年(明治2年)に開通しました。
また、その事業は、フランスやイギリスの株主によるスエズ運河会社(コンセッション方式)に独占営業権が与えられていました。

栄一は、フランスに到着する(3月マルセーユ)とスエズ運河の大工事はどのように実行されるのか、会計や金融の仕組みはどうなっているかなど、フランス人に質問し、その結果地中海紅海をスエズ運河で結び、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパアジア海運で結び、企業や国家をも超えた世界の人々の利益に貢献するという壮大なプロジェクトに大変驚きました。この時の経験が、栄一の経営思想の「合本がっぽん主義」に結びついたものと思えます。
合本主義とは、公益追求の目的を達成するために最も適した人材と資本を集め、事業を進める、ということです。その具体的な組織が会社であるといえます。博覧会の後は、勉学のためにフランスに残った昭武と共に栄一も残り、積極的に欧米の先進技術、社会・経済に関する組織・制度を学びました。

このパリ万博のために幕府は早くから準備をして、日本中から工芸品、絵画を集め、輸送のためのアゾラ号という船をチャーターしてフランスまで運びました。ところが、使節団が万博会場に着いてみると、別の日本ブースに工芸品が飾られていました。それは、薩摩藩が独自に出展していたものです。
しかも、彼らは、幕府は日本の唯一の支配者ではなく、薩摩藩と同等の大名であると、地元の新聞にあたかも独立国のように載せていました。薩摩藩は、幕府より早く周到な準備をして2隻の英国船をグラバー(スコットランド出身の貿易商、グラバー邸は世界遺産。)から手配してもらい工芸品を出展したのでした。
さらに、使節団を驚かせた事件が日本で起きます。10月に徳川慶喜政権を天皇に返上したこと(大政奉還)が、フランスの新聞に載ったことです。使節団一行は、皆信ぜず、虚説であろうと思っていました。
ところが、翌年、鳥羽戦争で幕府が敗走し、将軍は水戸に退隠になった、という記事を読み、それらは事実であり、日本では大変なことが起きていることが分かり始めました。そして、ついに明治政府から一行に帰国命令が届くことになり、これ以上帰国を伸ばすことはできなくなり8月にパリを後にして、11月横浜に戻りました。従って、栄一は、徳川末期に日本を離れ、明治元年に戻ったことになります。当時を振り返り「幸いフランスに行って、国家の乱を避け、一方では外国の情勢を知って修行の道を得たことから、このうえもない都合のよい運に向いてきたので、いかにも心嬉しく思った。」と述べています。
また、渋沢栄一の著書が多いフランス文学者鹿島茂は「使節団と昭武の会計・書記を担当し、特に会計の仕事がのちの栄一の人生を大きく変えることになる。会計事務の運用の過程でサン・シモン主義的な経済の原理を知るに至るからである。」といいます。サン・シモン主義とは、フランス社会主義思想家サン・シモン伯爵(1760-1825)の唱えた思想であり、富の生産を促進することが社会の重要な任務であり、この責任を果たすのは産業人であるという考えです。
これまでの社会の中心は、王侯貴族・僧侶・軍人・官僚などでしたが、これからは産業人が産業をおこし、国富を増やしていく、このような考えからイギリスの産業革命に遅れをとっていたフランスの産業社会が急速に進みました。そして、このような時期に栄一は、フランスで多くを学んだのでした。

なお、その後、スエズ運河については、中東に戦争をもたらすことになりました。1956年(昭和31年)大統領に就任したナセルは、スエズ運河の国有化を宣言しました。当然これに反発したイギリスとフランスは運河の権益を守るため軍事行動に出てエジプトに進行し運河を占領しました(第二次中東戦争、スエズ動乱)。
しかし、英仏の行動は国際的な非難を浴び、米国が停戦を支持して、結局英仏はスエズ運河を失うことになりました。国家をも超えた事業は、国同士の利害の対立が起きやすく、事業の経済合理性だけで動くものではないことがわかります。例えば、日本でも1970年代初頭にイランと日本との合弁で大規模な石油化学プラントの建設のため、三井物産グループと日本政府によりイラン・ジャパン石油化学(IJPC)が設立されました。
しかし、1979年(昭和54年)に突然発生したイラン革命イラン・イラク戦争により、その建設はストップし総事業費6,000億円は回収不能となりました。海外投資保険があるとはいえ、最終的な決着まで約20年にわたり企業は苦しむことになりました。筆者も監査責任者として長くこの問題にかかわりました。

さて、スエズ運河で採用されたコンセッション(Concession)とは、「公共施設等運営事業」ともいわれ、公共施設等の所有権を公共に残したまま、民間事業者がこれを運営する権利を受ける事業形式であり、今日ではPFI事業( Private Finance Initiative)ともいわれます。
すなわち、これまでの公共事業の施設の建設・運営、資金と経営、技術力などを民間主導で行うことで、効率的かつ効果的な公共サービスの提供が可能となります。日本では、この目的のための法律、いわゆるPFI推進法ができたのは、やっと平成11年になってからでした。

現在のコンセッションの例として、オーストラリア初のシドニー湾の海底トンネルThe Sydney Harbour Tunnel(1992年開通)があげられます。
この海底トンネルは、熊谷組と現地会社の共同で設立されたSydney Harbour Tunnel Companyによって建設、運営、料金徴収がまかされており、運営期間は30年であり、その後州政府に無償で返還される契約となっています。現在はスエズ動乱のような国有化による紛争は起こらない仕組みになっています。
国内においても、オリックスとフランスの空港運営会社であるバンシ・エアポート(VINCI Airports)等が出資する「関西エアポート株式会社」によって運営される関西国際空港(2016年契約、運営期間44年)の例などがあります。なお、平成30年の法改正で日本でも水道事業のコンセッションが可能となり、宮城県の上水道・工業用水道・下水道は、ナポレオン3世の勅令で創業されたフランスの水会社ヴェオリア社のグループ(Veolia group)であるヴェオリア・ジェネッツ株式会社と日本のメタウォーター株式会社などの出資会社「株式会社みずむすびマネジメントみやぎ」が来年から事業開始(運営期間20年)の予定です。
また、民間で運営されている刑務所も4か所に増え、関東地域では、セコムと三井物産などが設立した「社会復帰サポート喜連川株式会社」が運営する「喜連川社会復帰促進センター」(栃木県旧黒羽刑務所支所)があります。

さて、ここで、これらの事業の会計的な側面を見ると、コンセッションに参加した会社は契約により何らかの将来的価値を得ることになります。これをどのように会計上認識するか問題でしたが、この施設運営権の評価については、合理的な支出額を無形固定資産として計上することが会計基準で認められました(平成29年)。科目名は「公共施設等運営権」とされ、運営権の設定期間を耐用年数として、減価償却をすることになっています。

筆者は、20年前に欧州の公共工事の入札・会計制度などについて現地調査したことがあり、建設行政についてイギリスの環境省(Department for Environment, Food and Rural Affairs)、フランスの設備省(Ministère de l’Équipement)などを訪れヒアリングを行ないました。当時、日本ではPFIが議論中で、イギリスのサッチャー政権時代(1980年代)の民営化政策で確立されたものと思っていましたが、パリ近郊のラ・デファンス地区の設備省での説明では、フランスでの歴史は古く19世紀の鉄道、下水道、電力などのコンセッションに始まることを聞き、大変感心しました。150年前の栄一の驚きと比べようもありませんが、おおきな収穫でした。

 

(参考資料)
「渋沢栄一 Ⅰ 算盤篇」 鹿島茂 文藝春秋 2011年
「渋沢栄一 Ⅱ 論語篇」     〃
渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄) 」 渋沢栄一 角川ソフィア文庫 2000年
「徳川昭武」 須見 裕 中公新書   1977年

 


フェルディナン・ド・レセップス Wikipediaより

 


1997年 ラ・デファンス地区

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