中村義人の一言ゼミナール

社会人のための監査論 -会計監査はどのように役立つか- 第119回 監査の道

日本の中国進出について、始めから反対の一貫した姿勢を取り続けた人物がいます。彼は、政治外交的にも意義を唱えるばかりではなく、経済的にも大きな問題があると主張していました。それは、週刊東洋経済や会社四季報の出版で有名な東洋経済新報社に長く勤め(大正13年主幹、昭和16年社長)、また戦後の総理大臣(昭和31年12月~32年2月)にもなった石橋湛山いしばしたんざん明治17年~昭和48年)です。湛山は首相就任1カ月後に不幸にも脳梗塞で倒れ職務不能となったため、外務大臣岸信介に首相の地位をバトンタッチすることになりました。湛山は、大学卒業後始め東京毎日新聞に記者として入社しましたが、その後麻布の歩兵連隊に入営し少尉任官を得ましたが、明治44年東洋経済新報社に入社し、言論人としての人生を歩むことになりました。

 

東洋経済新報社は、明治28年に町田忠治まちだちゅうじ文久3年~昭和21年、民政党総裁、農林大臣商工大臣大蔵大臣などを歴任)により旬刊「東洋経済新報」(現在の「週刊東洋経済」)を創刊するために東京市牛込区(現在、新宿区)に創立されました。彼が、イギリス外遊した際、イギリスの経済雑誌The Economist」(1843年 天保14年創刊)がイギリス経済界に大きな指導的地位にあるのを見て、日本での必要性を痛感し、「東洋経済新報」を創刊しました。単に経済だけを内容とするのではなく、政治・外交・社会・教育など幅広いジャンルを扱うことを目指しました。湛山は、新報社が発行していた社会評論月刊誌「東洋時論」(明治43年5月~大正元年10月)の編集を担当し、国家に対する個人の立場を擁護し、封建社会からの開放を見据え、また国民に対しても浅薄弱小で哲学がないと訴え、例えば次のような辛辣しんらつな論評も見られます。

 

明治45年、明治天皇の偉業を奉ずるために東京市が明治神宮建設の方針を固めましたが、湛山は「東洋時論」紙上において次のように反論しました。「東京のどこかに明治神宮を建てるなどということは実におろかな極みである。断じて先帝陛下の御意志にもかなったことでない。真に先帝陛下を記念しまつろうとするのならば、まず何よりも先帝の残された事業を完成するということを考えねばならぬ。何らか形に現われた記念物を作ろうとするならば、神社などというものを建てずに、ノーベル賞(1901年 明治34年から始まった。)にならって「明治賞金」の設定をしたらどうか。」と。その理由として、「ダイナマイトの発明者ノーベルが、もしその遺産を彼の記念碑や何かに費やしてしまったとしたならば、彼はとっくの昔に世人から忘れられてしまったに違いない。しかし、彼はその遺産を世界文明のために賞金として遺したので、永遠に世界の人心に記念せられる人となった。」と言います。しかし、湛山のこのような意見は受け入れられず、大正9年神宮は完成し、鎮座祭が執り行われました。なお、大正4年社殿創立の内務省告示によると、明治神宮の住所地番は東京府下豊多摩郡代々幡村大字代々木となっており、当時はうっそうとした原野であり、地元では「代々木の原」と呼ばれていたそうです。なお、この地は陸軍の代々木練兵場として使用され、戦後は米軍のワシントンハイツ(居住宿舎など)となり、昭和39年東京オリンピックの選手村となり、そして現在は代々木公園となっています。小田急電鉄と東京メトロの駅「代々木上原」に当時の住所の名残り(東京府豊多摩郡代々幡村大字上原)がみられます。東京空襲で明治神宮の社殿は焼失し、敗戦直後参拝客は激減しましたが、現在は初詣客の数は全国一となっており、時代の変化を感じざるを得ません。

なお、神宮造営と共に明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳ごせいとくを永く後世に伝えるために聖徳記念絵画館造営が神宮外苑に計画され、7年余の歳月をかけて大正15年に完成しました。絵画館に収められている全壁画80枚は、昭和11年になって揃いました。大政奉還図や西郷と勝の江戸開城談判図などの記憶に残る名画が一流の画家によって描かれており、最近筆者が参観しましたが、一枚一枚明治時代の歴史を物語るもので、素晴らしい経験ができました。

 

湛山が新報社に入社する前に既に「東洋時論」の主幹である三浦銕太郎てつたろう1874年1972年 東洋経済新報社代表取締役、戦後日本経済研究所理事長など)が小国主義を唱えていました。彼は、明治政府がとなえてきた富国強兵、帝国主義は国民の膨張主義。領土拡張主義であり、国民の自尊心を満足させ、海外に領土を得て国旗がひるがえれば、国民は歓喜するとして、大国主義を批判しました。また、帝国主義は軍備費の増加によって国民生活を疲弊させるとして、具体的な経済統計により、すなわち明治35年度と36年度の軍事費を明治44年度と45年度を比べ軍備縮小すれば2年度で約1億円の国民負担が軽減できると説明しました。さらに、日清戦争(明治27年)からの10年間の歳出に比べ、日露戦争(明治37年)からの10年間の歳出は約44億円増加し、その内約30億円は非生産的な軍事費の増加と説明します。そして、日清戦争の勝利により清より4億円近い賠償金を得たが、日露戦争では樺太領土の半分の割譲を得ましたが、賠償金は一文も取れず逆に外債約15億円の負担となり、国民の負担は増すばかりであるとします(第117回監査の道参照)。日本の小国主義は、18世紀後半から19世紀にかけてイギリスの植民地領土拡張に反対し、イギリス本国の政治、経済的負担をできるかぎり最小限にとどめ、自由貿易主義により国力を強化しようとする小イギリス主義を模範にしたものですが、イギリスにおいては大英帝国主義の基に、アフリカ、インド、アジアなど領土拡大と植民地政策に走りましたが、第2次世界大戦後、の沈まない国といわれた大英帝国もついに崩壊することになりました。また、日本も同様の道を歩むことになります。

 

(参考資料)

「石橋湛山 リベラリストの真髄」 増田弘 中公新書 1995
「石橋湛山評論集」 松尾尊兌編  岩波書店 1991
「小国主義 日本の近代を読みなおす」」 田中彰 岩波新書 1999

石橋湛山

「樺太国境画定」安田稔作画
明治神宮外苑聖徳記念絵画館蔵

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