中村義人の一言ゼミナール

社会人のための会計と監査 -会計監査はどのように役立つか- 第121回 会計・監査の道

今年2月から渋沢栄一を主人公としたNHKの大河ドラマ「青天を衝け」が放送されています。渋沢栄一については、本稿でも何回か取り上げました。例えば、一橋家において勘定奉行に次ぐ重要な役目である勘定組頭となったこと、徳川慶喜の弟徳川昭武らのパリ使節団に勘定調役として加わり欧米を見聞したこと、大蔵省時代大蔵省の出納を西洋式簿記による記録に変えたこと、日本初の国立銀行である第一国立銀行(現:みずほ銀行)の設立に関与したこと、また明治の大規模な粉飾事件である日糖事件の役員であったことなど、会計や監査に関連した項目として多く触れてきました。

この大河ドラマは、脚本家大森美香氏によると、青空を衝く勢いで時代を駆け抜けた、血気盛んな人間味あふれる一人の男、渋沢栄一を描くつもりであると話しています。従って、これまでの放送された物語(令和3年5月まで)は、実業家としての栄一ではなく、血気盛んな幕末の志士として描かれていました。栄一は背広を着た実業家としての印象が強いのですが、実は坂本龍馬や西郷隆盛と同時代の幕末の志士であり、竜馬は早く亡くなり接点はなかったと思われますが、西郷については、明治4年の栄一の大蔵省時代に彼の自宅にふいに訪れ、相馬藩に二宮尊徳が導入した興国安民法(報徳仕法・御仕法とも呼ばれる。)を廃止しないようにとの話をして帰りました。当時参議である高い身分の西郷が官位の低い栄一を訪ねることは異例であり、彼は大変恐れ入ったと述べています。また、西郷がなぜ相馬藩の話をしたかについては、「第51回監査の道」を参照してください。また、京都在住の時は、京都町奉行の指名手配の武士を捕縛するため、新選組隊長近藤勇の協力を得て、犯人が潜む寺院に踏み込んで捕縛したなどの武勇伝もありました。

栄一は、倒幕を志しましたが、皮肉にも逆に幕府に仕えることになり、さらにその後、逆に幕府を倒した明治政府の役人になりました。しかし、いとこの渋沢喜作(渋沢成一郎)は栄一よりもっと数奇な運命を辿ります。二人とも若いころの志は一緒でしたが、栄一と共に、一橋家に仕えることになり、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦しました。そして幕府軍が敗退すると慶喜が江戸に逃げ帰った後、幕臣らを集めて彰義隊を結成し頭取に就任します。彰義隊は、上野寛永寺に立てこもり、慶応4年5月15日たった1日で新政府軍に敗れ、戦死または投獄されることになりました。ところが、上野戦争の前に喜作は彰義隊と意見が合わず脱退して、田無に集まり振武軍を結成して官軍と戦うことになります。しかし、ここも敗れ、榎本武揚の艦隊と合流し、函館に逃れます。そして、榎本軍が箱館戦争で敗退すると、喜作も官軍に捕まり投獄されます。しかし、栄一の口利きで赦免され、その後栄一と同じように経済界に身を投じることになります。

ドラマのタイトル「青天を衝け」は、栄一が、19歳の時に、藍玉の商売で信州に旅したとき、険しい内山峡(長野県佐久市)で詠んだ次の漢詩「内山峡うちやまきょう之詩」の一節からとったと説明されています。

「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」(青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む)NHK2021年大河ドラマHP2019年09月09日より

栄一が他界してから9年後の昭和15年に、栄一の長詩に感激した信州佐久の地元有志らは、現地内山峡に詩碑建立を発願し、南佐久郡内山村肬水いぼみずの岩壁に詩碑を制作し、10月15日栄一の孫渋沢敬三子爵(日本銀行総裁、大蔵大臣)によって除幕されました。(佐久市HPより)

渋沢家では一年に数回、藍玉の商談と馴染みの客との歓談を楽しみに、信州佐久を訪れるのを通例としていたそうです。栄一もひとりで信州に藍(藍染めに使用される一年生植物)を買い出しに良くて出かけました。「内山峡之詩」は、次のように始まっています。「高い山は蛇のように曲がりくねり波の様である。西は信州の山に接し、とりわけ険しいのは内山の峡で、天然の高く険しい山は、えぐられてできたようだ。私は、商いのため、信州に向かって行程をとる。小春日和、よい風景である。蒼い松、紅のかえで草鞋わらじの足取りは軽く、三尺の刀を腰に差して、一巻の書を背負って、険しい山道をよじ登る。歩き回れば、ますます深く、険しさはいよいよ過酷となり、奇妙な形をした珍しい岩々が数多く横たわっている。・・・・」

当時は、深谷から信州への道のりは、大変困難でした。中山道が天下の公道のため、貨物は宿々で金銭を払い、常備の伝馬で継ぎ送りするのが原則だったので、費用と時間を節約するため、渋沢家はじめ、民間の旅人は脇道利用が多く、険しい峠越えをしていました。

栄一は後年、彼が信州への道を急ぐあまり、近道の香坂峠こうさかとうげ(佐久市香坂と群馬県下仁田町間)で暴風雪に遭遇し、あわや道に迷い遭難するところを、地元の人々の心細やかな気遣と、接待で一命を取り留めた、と述懐しています。

渋沢栄一資料館渋沢栄一伝記資料デジタル版、「雨夜譚会談話筆記(昭和2年11月~5年7月)」によると、栄一が青年時代に信州へ行った時、峠の一軒家に詮方せんかたなく宿泊したことについて、次のように話しています。「上州から信州に越えるには峠が幾つもあり、主なものは、碓氷峠、香坂峠、志賀峠、内山峠、戸沢峠などが在った。あの時は私が二十一か二の年だったと思うが、一人で大変雪が降る日で、その為に時間を思い違いして、まだ早いだろうと思って、上州に泊ればよかったのを折角だから香坂峠を越えようと先へ行ってしまった。峠を登る時分はまだ明るくてよかったが、下りかけると大変な雪で道がわからなくなった。雪さえなかったら、迷うような事はなかったのだが、人が通った跡はないし、見当がつかなくなった。何度も迷っているうちに元気がなくなってしまい、これは駄目だ、死んでしまいはせぬかと真に心細くなった。体が雪にはまってへとへとになって、ようやく草鞋を売る家に辿り着いた。小さな家で、老人夫婦がおり、『実は上州の方から峠を越えて来たが、雪でひどい目にあって動けないから泊めてくれ。』と頼むと『無鉄砲な事をなさつたものだ。こんな日に、それも暮れ方に峠を越す人なんぞありやしない。それでもここ迄で来られて、まぁよかった。』といって家に入れて泊めてもらった。本当にあの時は助からないと思った。」

 

(参考資料)

渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄) 」 渋沢栄一 角川ソフィア文庫 2000

江戸のいちばん長い日 彰義隊始末記」 安藤優一郎 文春新書 2018

 

 


「内山峡之詩碑」佐久市肬水いぼみず地区

 


深谷市のふっかちゃんと栄一

 

関連記事